2024/04/25

罪を赦された幸い

幸いなことよ
その背きを赦され罪をおおわれた人は。
幸いなことよ
主が咎をお認めにならず
その霊に欺きがない人は。
(詩編32:1~2)

政治家や企業のトップが
<~と感じられたのなら、おわびします>
と謝罪会見で言いますが謝罪になっていません。
受け取る側に問題があると非難しているだけですから。

それに比べて詩編32篇はさわやかです。
全面的に自分の非を認め、
神の前にも人の前にも隠し事がありません。
自分の罪を正直に認めています。

衣を裂き、自己弁護を止め、灰をかぶり、
罪を悲しみ、迷惑を与えた事を詫び、
非難の言葉を聞き、主の前に全てを明らかにする。
その砕かれた魂を神の恵みの衣が覆います。

そういう人は真に幸いなのです。

自分の罪を悔い、主の赦しを体験する。
そういう人には平安が訪れます。
どん底まで落ちても、将来が開けます。

混じりけの無い心で
ごめんなさいを言いましょう。

2024/04/24

心をご覧になる主

主がこれらのことばをヨブに語った後、
主はテマン人エリファズに言われた。
「わたしの怒りはあなたとあなたの二人の友に向かって燃える。
あなたがたが、わたしのしもべヨブのように、
わたしについて確かなことを語らなかったからだ。」
(ヨブ42:7)

ヨブ記の最後で、主はヨブを叱責され、
知識もないのに摂理を覆い隠すなと言われました。

その直後に、主はヨブの友人エリファズと
二人の友人を責め、強い怒りを伝えました。

友人たちは、ヨブに隠れた罪があると邪推して
悔い改めよと何度も攻め立てましたが、
それはお門違いだと主は指摘されました。

ヨブは神に歯向かうような事を何度も言ってきましたが、
そうであっても主はヨブの本心を受け止め、
神について確かなことを語ってきたと弁護されました。

友人に対する主の叱責を聞いて
ヨブはどんなに慰められたことでしょう。
主は、きちんと私たちの心を見て下さる方です。

2024/04/23

謙虚な王

わが神、主よ。
今あなたは私の父ダビデに代わって、
このしもべを王とされました。
しかし私は小さな子どもで、出入りする術を知りません。
(第一列王3:7)

即位直後のソロモン王は
若く、謙虚で、神の声を尋ね求める人でした。

この頃のソロモンは、
知恵者という自負もありません。

神によって王とされた事を光栄に感じていました。
ダビデという偉大な父のゆえに、
自分があると自覚していました。

何よりも、自分の不十分さを理解していました。
小さな子どもにすぎないと
自らの技量不足に気づいていました。

欠けている自分、足らない力、
経験がなく、未来も予想できない、
そういう状態はマイナスではなく、
信仰的には大きなプラスだということが分かります。


未熟さの自覚。
それは無限の神に頼るための滑走路になります。

2024/04/22

天幕の場所を

あなたの天幕の場所を広げ、
住まいの幕を惜しみなく張り、
綱を長くし、杭を強固にせよ。
(イザヤ54:2)

小さなテントでは入りきれない日が来るから、
広いテントを作りなさいという勧めで、
とても前向きなことばです。

日本風に言えば四畳半と六畳の家では小さい、
増築しなさいということです。

ところがこの箇所の前後を読むと分かるのですが、
辱めを受け、辛い状況にいた人たち、
子供を産まない女性、夫に捨てられた女に対する
言葉だったのです。

暗闇で希望を持てない今こそ、
主に信頼して、祝福を信じて、
天幕の場所を広げてみなさいと
主は励まして下さいました。


あなたは何に取り組みたいですか。
あなたの天幕とは何でしょう。

2024/04/21

わたし=ことば

主は、ご自分の働きのはじめに、
そのみわざの最初に、わたしを得ておられた。
わたしは、大昔に、初めに、
大地の始まりの前に、立てられていた。
まだ深淵もなく、水のみなぎる源もなかったとき、
わたしは生み出された。
(箴言8:22~24)

「わたし」とありますが、
これは誰か人物のことではありません。
箴言8章の文脈からいうと、
はじめから存在していた知恵、つまり<ことば>です。

箴言8章は実に不思議な章です。
知恵が人格を持つ存在として描かれているからです。(12節)
その知恵が世界の初めからあったと語られています。

30節では「わたしは神の傍らで、
これを組み立てる者であった」と述べています。
知恵、ことばが世界を創造したのです。

「はじめにことばがあった」という文章は
ヨハネの福音書の冒頭として有名ですが、
今日の聖句の新訳聖書版かもしれません。

主イエスは、神のメッセージと神の心と愛を
私たちに伝えてくれる<ことば>そのものなのです。

2024/04/20

神の人よ

しかし、神の人よ。あなたはこれらのことを避け、
義と敬虔と信仰、愛と忍耐と柔和を追い求めなさい。
信仰の戦いを立派に戦い、永遠のいのちを獲得しなさい。
あなたはこのために召され、
多くの証人たちの前ですばらしい告白をしました。
(第一テモテ6:111~12)

私もあなたも主に召されています。
何のためにでしょうか。
テモテが日々に意識していた以下の事です。

1、悪や罪を避ける
2、神への敬虔さや信仰
3、人への愛と柔和
4、信仰のゆえの戦い
5、永遠を意識する
6、人々に証しする

パウロが年若いテモテを
「神の人よ」と呼んでいます。
神に召されて牧師となった後輩に
自覚を促しつつ、尊敬を表しています。

私たちも、実際の仕事や立場は違いますが、
神の人としての歩みが期待されている者です。
神の姿に変えられつつある者です。
神に召された者です。



2024/04/19

金持ちの倉

そして、自分のたましいにこう言おう。
「わがたましいよ、これから先何年分もいっぱい物がためられた。
さあ休め。食べて、飲んで、楽しめ。」
しかし、神は彼に言われた。
「愚か者、おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。
おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。」
自分のために蓄えても、神に対して富まない者はこのとおりです。
(ルカ12:19~21)

これは主イエスのたとえ話です。
畑が大豊作になり、倉を作った金持ちが
今後は何年も働く必要がないと喜ぶ話ですが、
その夜、命が取られるという内容です。

その晩、金持ちの命が終われば、
貯めたものは手元から離れてしまいます。

お金をためるのが悪いわけではありません。
仕事の成功は素晴らしい祝福です。
神に対して富まない生き方が問題なのです。

自分の蓄えと自己満足にとらわれず、
誰かに与える、分ける、寄付する、社会に役立てる、
神のためにささげるなどの形で有効利用しましょう。

本当の資産活用は神の視点ですべきです。
命あるうちに、富を神と人のために用いましょう。