2022/08/31

タテナイ?

さて、預言者ハガイと
イドの子ゼカリヤという二人の預言者は
ユダとエルサレムにいるユダヤ人に対して
自分たちの上におられる
イスラエルの神の御名によって預言した。
そこでシェアルティエルの子ゼルバベルと
エホツァダクの子ヨシュアが立ち上がり
エルサレムにある神の宮を建て始めた。
神の預言者たちが一緒にいて
彼らを助けた。
(エズラ記5:1~2)

捕囚から帰って来た人々は
荒廃した都や周辺に家を作り
自分達の生活確保に追われました。

神殿を再建しようと試みましたが
途中で挫折し15年も放置されていました。

預言者のハガイとゼカリヤは、
神殿こそが地域と人々の心のよりどころであり、
神殿建設を再開しようと励ましました。

この工事を邪魔した人がいましたが、
名前をタテナイといいます。注)ダジャレではありません。

行政の長のゼルバベルと大祭司ヨシュアは
民の先頭に立って工事を指導、5年後に完成に導きました。

あなたは挫折していますか。
主の導きと助けによって
やり直してみませんか。

2022/08/30

弓に頼らない

私の弓に私は頼りません。
私の剣も
私を救いません。

しかし
、あなたは私たちを敵から救い

私たちを憎む者どもを辱められます。

(詩篇44:6~7)

出エジプトの時も、荒野を旅した時も、
ヨルダン川を渡って約束の地に入った後も、
イスラエルの民は武力で勝利したわけでは
ありません。

神の御腕、神の力が
すべてを成し遂げたのです。

それで、イスラエルの民は
自分の弓や剣に頼らないと宣言しました。

現代に生きる信仰者も同じです。
自分の能力、勇気、気力に頼るのではなく、
生きた主に信頼します。

だから劣等感の泥沼に足を取られず
高慢の罠にも陥りません。

今日、私の弓や剣に頼りません。
私のために戦われる主を見上げます。

2022/08/29

横を歩く人

話し合ったり論じ合ったりしているところに、
イエスご自身が近づいて来て、
彼らとともに歩き始められた。
しかし、二人の目はさえぎられていて、

イエスであることが分からなかった。
(ルカ24:15~16)

日曜の午後遅く、クレオパともう一人は
エルサレムから逃げ出すようにエマオへの道を歩いていました。
二人はひどく落ち込んでいて、悲しみでつぶれそうで、
信仰も動揺していました。
救い主イエスさまが金曜日に亡くなったからです。

すると見知らぬ男性が会話に入ってきて
イエスさまについて質問して来ました。
二人は道々、彼と話すようになり、
いつのまにか聖書理解が深まり、心が温かくなりました。

それもそのはず、その男性はイエスさまだったのです。

私たちが落ち込んだときや、
弱り果てたときに、
一緒に歩いてくれるのがイエスさまです。

ほら、横を見て下さい。
主イエスの笑顔が見えますか。

2022/08/28

天を創造された方

天を創造し、これを延べ広げ、
地とその産物を押し広げ、

その上にいる民に息を与え、

そこを歩む者たちに霊を授けた神なる

こう言われる。

「わたし、主は、義をもってあなたを召し、

あなたの手を握る。

あなたを見守り、

あなたを民の契約として、国々の光とする。

(イザヤ42:5~6)

四日市で伝道牧会をされた堀越牧師は
日本において、聖書の神の名を「創造主」とすべきだと
強く主張されました。

聖書が示すまことの神は、
八百万の神とはまったく違う。
人間が削って造った木や銅の像とも違う。
哲学や伝統や文化で作り上げられた
観念上の神とも違う。

今日の聖句のように、まことの神は
天と地を造り、人間に命を与えた方です。

その創造主は、
遠く離れているのではなく
私たちの手を握り、見守って下さる方です。
そして、私たちを用いようとする方です。

ハレルヤ、
創造主に栄光あれ。

2022/08/27

この人を見よ

いまだかつて神を見た者はいない。
父のふところにおられるひとり子の神が、
神を説き明かされたのである。
(ヨハネ1:18)

世の中には、
「神を見せてくれ。見たら信じるから」
と言う人がいます。

信じる気はあるのでしょうか?

十二弟子のヨハネは、今日の聖句で
主イエスがどんな方かを述べました。

神を肉眼で見た者はいない。
だが、神がどんな方かを説明し、
神のこころを明らかにした方はおられる。
ご自分の生き方を通して、また、奇跡を通して、
神を説き明かされた方をこの目で見た。

その方こそ神のひとり子、主イエスです。

この人を見よ、とヨハネは言っています。。
イエスさまを見るなら
イエスさまの言葉を聞くなら
神が分かるはずだと言うのです。

2022/08/26

本当の悩み

すると見よ。
中風の人を床に寝かせたまま、
みもとに運んで来た。
イエスは彼らの信仰を見て、
中風の人に
「子よ、しっかりしなさい。
あなたの罪は赦された」と言われた。
(マタイ9:2)

脳卒中の後遺症のため
寝たきりになった男性が
主イエスの前に運ばれて来ました。

床の上の男性の願いは
不自由な体のいやしだろうと
誰もが思います。

でも、主イエスは見抜いていました。
中風の人よ、あなたの最大の関心事は
身体のことではなく過去の罪だね。
あなたの罪は赦されたよ。

人の本当の悩みは
外見からは分かりません。
多くの人は犯した罪で悩んでいます。

主イエスは
すべての人の罪を赦すまことの救い主です。

子よ、あなたの罪は赦された。

2022/08/25

竪琴を弾く人

「しかし今、
竪琴を弾く者をここに連れて来てください。」

竪琴を弾く者が竪琴を弾き鳴らすと、
の手がエリシャの上に下り、
彼は次のように言った。

はこう言われます。
『この涸れた谷にはたくさんの水がたまる』」
(第二列王記3:15~16)

預言者エリシャは、戦いの最前線に、
呼び出されました。
主の御心を伺って欲しいと
イスラエルとユダの王に懇願されたのです。

竪琴を演奏する人が必要だと預言者は言いました。

虚心坦懐、主の声だけを聞きたかったので、
エリシャは主を賛美し、礼拝しました。
竪琴奏者は、エリシャの静まりと礼拝を助けました。

イスラエルとユダの連合軍は
7日の遠回りをしていたので水不足になっており
行軍に支障が出ていましたが、
荒地に明日、主が水を下さるとエリシャは語り、
事実、不思議な方法で大量の水が流れてきました。

礼拝での音楽奏者は尊い奉仕をしているのです。
奏楽者たちの日々の賛美に感謝しましょう。


2022/08/24

向こう岸へ渡ろう

さてその日、夕方になって、
イエスは弟子たちに
「向こう岸へ渡ろう」と言われた。
(マルコ4:35)

主イエスと十二弟子は同じ舟に乗っていて
夕方になりました。すると、
「向こう岸へ渡ろう」と主が言われました。

「これからですか」、「日が暮れますよ」
「結構遠いですよ」、「明日にしませんか」
という気持ちが元漁師の弟子達の心に浮かんだことでしょう。

あなたにとって「向こう岸」とは何でしょう。

主イエスがあなたを励まして
新しい世界を見せようしています。
あなたにチャンスと喜びを与えようとしています。

ただし湖は嵐になり、弟子達は鍛えられ後に、
主イエスの偉大な力を経験して向こう岸に着きます。

私にとって、向こう岸は文字通り太平洋の向こうでした。
嵐と素晴らしい祝福がありました。

2022/08/23

走り回っても

あなたがたは多くを期待したが、
見よ、得た物はわずか。
あなたがたが家に持ち帰ったとき、
わたしはそれを吹き飛ばした。
それはなぜか。
─万軍の主のことば─
それは、廃墟となったわたしの宮のためだ。
あなたがたがそれぞれ、
自分の家のために走り回っていたからだ。
(ハガイ書1:9)

ハガイ書のテーマは神殿再建です。

人々の関心事は自分オンリーでした。
仕事は頑張りましたが、大事な方を忘れ、
自分のことで頭は一杯でした。

預言者ハガイが指摘したように、
神殿建設を後回しにして動き回っても
得た物はわずかだったのです。

空回りしていました。
第一のものを最後にしたせいです。

信仰的な優先順位は目に見えない価値観ですが、
目に見える生活に如実に表れます。

神を第一にしましょう。

2022/08/22

ぶどう酒ください

イエスも弟子たちも、
その婚礼に招かれていた。
ぶどう酒がなくなると、
母はイエスに向かって
「ぶどう酒がありません」と言った。
(ヨハネ2:2~3)

カナという町で結婚式がありました。
イエスさまのお母さんマリアは
その結婚式の実施に深く関わっていたようです。

披露宴の途中で、ぶどう酒が足らないとの報告が来ました。
顔色を変えたマリアは、
主イエスに状況を説明して助けを求めました。

ぶどう酒をそろえるにはお金がいります。
人脈を利用したり、人の動員も必要です。
神の子にお願いするのを躊躇するほど具体的です。
でも、マリアは頼みました。

とても実際的な事を主に願いましょう。
空気を読めないと言われそうなリクエストでも、
それを、信仰を持ってしてみましょう。

たとえば、三菱製のエアコンを与えて下さいとか、
13万 2980円を与えて下さいとか。

2022/08/21

賜物とは

それぞれが賜物を受けているのですから
神の様々な恵みの良い管理者として、
その賜物を用いて互いに仕え合いなさい。
(第一ペテロ4:10)

この聖句から賜物について次の事が分かります。
1、全員が何かの賜物をもらっている。
2、賜物は管理する必要がある。
3、賜物は仕え合うためにある。

主があなたに賜物を下さいました。
必ず何かの賜物をもらっています。

賜物の管理とは、
試してみる、周囲の評価を聞く、
もっと学ぶ、経験を重ね、人に教え、
生涯磨き続ける事です。

賜物はほめられるためでなく、
また、目立つために使うのでもなく、
誰かに仕える目的で用います。

あなたが主から頂いた賜物は何ですか?
賜物を用いる時にあなたは輝きます。

2022/08/20

もう一つの幸い

私たちは心強いのですが、
むしろ肉体を離れて、
主のみもとに住むほうがよいと思っています。
そういうわけで、
肉体を住まいとしていても、
肉体を離れていても、
私たちが心から願うのは、
主に喜ばれることです。
(第二コリント5:8~9)

パウロの言葉に驚かされます。
地上を去り、
主のみもとに住むほうが良いというのです。

生きてるより、死んだほうが良い。
パウロはそう言い切りました。

パウロは生きたまま
パラダイスに引き上げられ(第二コリント12章)
神の臨在と栄光の体験をしていたので
そう言えたのかもしれません。

私たちは、
パウロの見た景色を知りません。
死の先についての知識もあやふやです。

聖書は、死の向こう側について
確かなことを語ってくれているので
もっと聖書を学んでいきましょう。

地上でも、主のみそばでも
大事なことは
主を喜ぶ姿勢、主に喜ばれる生き方です。

2022/08/19

損害賠償法

しかし、もし牛に以前から突く癖があり、
その持ち主が注意されていたのにそれを監視せず、
その牛が男または女を殺したのなら、
その牛は石で打ち殺され、
その持ち主も殺されなければならない。
(出エジプト記21:29)

民法709条にこう記されています。
「故意又は過失によって

他人の権利又は法律上保護される利益を侵害した者は、

これによって生じた損害を賠償する責任を負う。」

今から3000年以上前のモーセの律法にも
民法と同じルールがありました。

誰かに被害を与えたなら、ごめんなさいと伝え、
損害を償うのは人として当然の道です。

人を突く傾向のある牛がいたなら
その持ち主は誰かに危険が及ばないように
注意を払う義務がありました。
それは他者への思いやりであり配慮です。

それを怠った場合は厳しく処罰されました。

私たちも「ごめんなさい」の言葉とともに
必要ならば、
具体的な償いを届けましょう。

2022/08/18

からだを殺しても

私の友であるあなたがたに言います。
からだを殺しても、
その後は何もできない者たちを
恐れてはいけません。
(ルカ12:4)

主イエスは弟子たちを励まそうとして、
極限状態を想定されました。

信仰ゆえに、殺されるかもしれない。

でも、じたばたするな。

人間ができるのは身体を破壊することだけだ。

ここでは暗に
主イエスは
死で終わらせる方ではないと
言っているのです。

イエスさまに「友」と呼ばれた
弟子たちは光栄だったでしょう。
その友を苦しいだけで終わらせないと
主イエスは約束されたのです。

私たちは何を恐れているのでしょう。

2022/08/17

足がよろける

もしも主が私の助けでなかったなら
私のたましいは ただちに
沈黙のうちに とどまったでしょう。
「私の足はよろけています」と私が言ったなら
主よ あなたの恵みで
私を支えてください。
(詩篇94:17~18)

社会には悪しき者がはびこっています。
悩みに押しつぶされる事もあります。
そんな時に、主にしがみついているのが
今日の詩篇です。

どんなに頑張っても
自分の足がよろけるくらいに
悩みが大きい時があります。

主が支えて下さらなかったら
もう自分は消えていたでしょう。

最後まで頼れるのは主だけです。
主の恵みが最大の支えです。

私はぐらぐらしています。
助けて下さいと主に祈りましょう。

主こそ私の助けです。

2022/08/16

ヨブ記のマグマ?

彼は、人里離れたところで縦坑を掘り進み、
行き交う人に忘れられ、
人々から離れたところで、
ぶら下がって揺れる。
地はそこから食物を出すが、
その下は火のように沸き返っている。
(ヨブ記28:4~5)

炭鉱労働者についての記述です。
ヨブ記は極めて古い書物ですが
こうした内容に驚かされます。

地球の深部にはマントルや核があり
まさに「火のように沸き立って」います。
ヨブはそうした科学知識を
知っていたのでしょうか。

ヨブが言いたかった事は、
物事の究極的な知恵や悟りを追い求めて
地下に降りても見つけられないということです。

掘って行けば、金や銀やサファイアは見つかりますが
本当に大切な真理は神の中にあるのです。

求める方向を間違えないように。
主を恐れることこそが
知恵であり悟りなのです。





2022/08/15

私の望み

主よ、今、
私は何を待ち望みましょう。
私の望み、
それはあなたです。
(詩篇39:7)

若い人は、
先まで見渡せないので
人生に不安を感じます。

年配者は、
人生は短く不条理だったが
死期も近づいていると焦燥感を覚えます。

ダビデも
自分の人生の終わりを恐れたり
自分の齢を数えるほどの
苦悩に直面していました。

苦悩の中ではっと気づきました。
希望は神にあると。

私たちが探すのは問題の解決です。
でも、私たちが本当に望むべきものは
神ご自身なのです。

あなたの望みは何ですか。

すべての望みが絶たれても
最後まで
神を待ち望むことができます。



2022/08/14

揺るぎません

神よ、私の心は揺るぎません。
私の心は揺るぎません。
私は歌い、ほめ歌います。
(詩篇57:7)

もう少しで崖から落ちる所だった。
霧が晴れて、吸い込まれそうな眼下の景色を見て
恐怖がにわかにが襲ってきます。

敵対者がいる、
私を狙って網をしかけている。
そう分かった時も
胸が苦しくなります。

ダビデは言いました。
私の心は揺るぎません。

恐れも試練もないなら
心の揺るぎという感覚は生じません。
ダビデは、それを強く意識していました。
苦しみと試練と敵が目の前にあったからです。

その時、私は揺るぎませんとダビデは言いました。

これは、ダビデの信仰告白です。
試練に立ち向かう挑戦状です。
困難の中で主を賛美することが
信仰者の戦い方なのです。

私の心は揺るぎません。 

2022/08/13

東と西

天が地上はるかに高いように
御恵みは、主を恐れる者の上に大きい。
東が西から遠く離れているように
主は、私たちの背きの罪を
私たちから遠く離される。
(詩篇103:11~12)

詩篇103篇は恵みのフルーツパフェのようです。
神の素晴らしい恵みが
あれも、これも、盛り沢山に語られています。

特に今日の箇所では
罪の赦しの完璧さが述べられています。

東と西の端は誰も見えない遠い距離です。
神は、あなたの罪は知らないよ、
ずっと遠くに離してしまったから
もはや目にすることもない
と言っておられるようです。

主イエスを信じて、
十字架の恵みを知った人なら
あなたの罪は完全に赦され
遠くに投げ捨てられた事を心に留めて下さい。
誰もあなたを脅かす人はいないのです。
過去にも罪にも悩まされることはないのです。
ハレルヤ。

2022/08/12

王の不眠症

その夜、
王は眠れなかったので、
記録の書、年代記を持って来るように命じた。
そして、それは王の前で読まれた。
(エステル記6:1)

ペルシャ王が不眠症になると
側近の者まで眠れません。

目が覚めたので何か読み物はないかと王は考え、
そうだ、最近の政治・行政に関する記録でも
読んでみるかと家来を呼びました。
(そうすれば退屈で眠くなる?)

王様暗殺をたくらんだ人物が二人いましたが、
モルデカイが察知して未然に防いだ事が朗読されました。
王は彼に褒美を取らせることを決めました。

この事がきっかけで
ハマンによるモルデカイ殺害の道が閉ざされ、
王はユダヤ人モルデカイへの好感度を上げました。

主のお力とご配慮は
有力者の不眠という事態にも働きました。

2022/08/11

それはないでしょう

そこでモーセは主に叫んで言った。
「私はこの民をどうすればよいのでしょう。
今にも、彼らは
私を石で打ち殺そうとしています。」
(出エジプト記17:4)

モーセは
命をかけてイスラエルの民を導き
エジプトの奴隷状態から解放しました。

紅海を渡り、荒れ地を進む頃
人々は水がないと強く不平を言いました。

イスラエルの民の不満が爆発しそうになり、
モーセがそのやり玉に挙げられて
殺されそうになりました。

こんなに苦労して助けたのに、
恩をあだで返された。
あなたもそんな経験をしていますか。

天に宝を積んでいるのだと考え直しましょう。
モーセもあなたの苦労が分かってくれますよ。

2022/08/10

最後の粉

彼女は答えた。
「あなたの神、主は生きておられます。
私には焼いたパンはありません。
ただ、かめの中に一握りの粉と、
壺の中にほんの少しの油があるだけです。
ご覧のとおり、二、三本の薪を集め、帰って行って、
私と息子のためにそれを調理し、
それを食べて死のうとしているのです。」

(列王記第一17:12~13)

飢饉が全国的にひどくなった時、
預言者エリヤは海沿いの町に導かれました。
エリヤに食事を出してくれる女性がいるとのことでした。

エリヤは一人のやもめに声をかけて
水を一口、パンも一つ下さいと頼みました。

彼女は暗い顔をしていたはずです。
エリヤの神は生きているけど
私の神はそうではないと言いたげです。
最後の粉でパンを焼き、
息子と共に死を待つ境遇だと言いました。

おそらくエリヤは、顔色を変えずに言ったでしょう。
最後の粉でパンを焼いて私に下さい。
その後で、あなた達も食べなさいと。

主は生きておられ、私もあなたも生かして下さるという
確信を持っていたので、図々しく見える依頼ができたのです。

やもめは全てを失い死を覚悟していたので
神への信仰にジャンプするのは自然にできました。
それで女性は、尽きることの無いパンの粉を目にしたのです。

2022/08/09

人の言葉

また、人の語ることばを
いちいち心に留めてはならない。

しもべがあなたをののしるのを

聞かないようにするために。
あなた自身が他人を何度もののしったことを、

あなたの心は知っているのだから。
(伝道者の書7:21~22)

人の陰口が気になりますか。

伝道者の書は言います。
いちいち気にとめるな、と。

人の言葉は、不正確で主観的で、
誤解に基づいているから
気に留める価値がないのです。

主人がしもべの悪口を気にしても
意味がありません。
むしろ、滑稽です。

陰口を気にしている人に、
自分が悪口を言っていた過去を
思い出せとも忠告しています。

心に留めるな。
それが処方箋です。

2022/08/08

アリマタヤ

夕方になり、アリマタヤ出身で金持ちの、
ヨセフという名の人が来た。
彼自身もイエスの弟子になっていた。

この人がピラトのところに行って、
イエスのからだの下げ渡しを願い出た。
そこでピラトは渡すように命じた。

(マタイ27:57~58)

福音書には二人の金持ちが出てきます。
金持ちの青年とアリマタヤのヨセフです。

若者は、大金を保持したいがために
主イエスに従うことができませんでした。

アリマタヤのヨセフは有力な国会議員で
イエスを信じて神の国を待ち望む人でした。
イエスさまの遺体の埋葬を申し出たことにより、
今までの名声や地位を失う危険がありました。

それでも、所持している墓を使ってもらおうと
行動を起こしました。

金持ちである事は神から与えられた賜物です。

金持ちである事を生かす時と場があるのです。

イースターの日曜日、アリマタヤのヨセフは
空っぽになった彼の墓を入念に調べたはずです。
そして、誰よりもリアルに
主イエスの復活を力強く感じたことでしょう。 

2022/08/07

どっちが良い人?

ところで、あなたがたはどう思いますか。
ある人に息子が二人いた。
その人は兄のところに来て、
『子よ、今日、ぶどう園に行って働いてくれ』と言った。
兄は『行きたくありません』と答えたが、
後になって思い直し、出かけて行った。

その人は弟のところに来て、同じように言った。
弟は『行きます、お父さん』と答えたが、行かなかった。

(マタイ21:28~30)

ぶどう園の仕事を手伝ってほしいと
父が二人の息子に頼むたとえ話です。

兄は行きたくないとそっけなく断りました。
わがまま息子に見えます。

弟は、素直に行きますと答え
「おとうさん」と尊敬心まで表しました。

けれども、親孝行に見えた弟は姿を見せず、
ぶどう園で実際に仕事をしてくれたのは
行きたくないと答えた兄のほうでした。

主イエスは、
乱暴で雑に見える兄を取税人や遊女に重ね、
礼儀正しく見える弟を律法学者にたとえています。
真実な悔い改めをしたのは取税人たちでした。

うわべを飾っても空しいです。
本音で主を愛し主に従いたいです。

2022/08/06

下降志向

高ぶりが来れば、辱めも来る。
知恵はへりくだる者とともにある。
(箴言11:2)

上を目指している人は
能力があったり、外見が良かったり、
自分の可能性を試したい人が多いですね。

セルフイメージの低さが原因で
上昇意識が人一倍強い場合もあります。

他人より少し上に立てた事で
高ぶる人がいます。

高ぶりは周囲の人を不機嫌にさせるので
馬鹿にされた人たちが逆襲し
その高ぶった人が辱められてしまいます。

周囲を生かし社会を変えていく原動力は
上昇志向ではなく、まして高ぶりではありません。

神を見上げる心を持ち、
へりくだる人に与えられるまことの知恵なのです。


2022/08/05

冷たい預言者

エリシャは、彼に使者を遣わして言った。
「ヨルダン川へ行って七回あなたの身を洗いなさい。
そうすれば、あなたのからだは元どおりになって、
きよくなります。」
(第二列王記5:10)

預言者エリシャは仙人の雰囲気が感じられ
冷たく、そっけない預言者に見えます。

隣国の有名な将軍ナアマンが
エリシャを頼って訪ねて来ても
エリシャは直接面会しませんでした。
遠くから良く来た、さあ入りたまえ、
どんな病気だ、大変だったな、などとは
一言も言わないのです。 

愛想がない代わりに、
ナアマンの難病が治る方法を
使者を通じて、的確に教えました。

人間エリシャを頼るのでなく
目には見えないまことの神だけを信頼せよと
教えるための「塩対応」だったのです。

ナアマンは主を信頼して7度自分の体を
ヨルダン川に浸して、癒されました。


2022/08/04

このためにこそ

今わたしの心は騒いでいる。
何と言おうか。
「父よ、この時からわたしをお救いください」と言おうか。
いや、このためにこそ、わたしはこの時に至ったのだ。
(ヨハネ12:27)

主イエスの心はずっと定まっていましたが、
十字架が間近に迫った時、
心の中が騒ぎました。

主は、その心の動きを隠さずに
ありのまま表現されました。

イエスさまは私たちと同じ人間になられたので、
鋼の心でなく、揺れる心をお持ちなのです。

ゲッセマネの祈りで分かるように
迷う心、苦しむ心で十字架に向かわれたのです。

揺れて葛藤するイエスさまですが、
最終的には「この時のため」だったと
ご自分の使命に立ち返りました。

逃げたい時、避けたい時でも、
「このためにこそ」と言える瞬間が
私たちにもあります。
その道を選び取っていきましょう。

2022/08/03

正しすぎるな

私はこの空しい人生において、
すべてのことを見てきた。

正しい人が正しいのに滅び、

悪しき者が悪を行う中で長生きすることがある。

あなたは正しすぎてはならない。

自分を知恵のありすぎる者としてはならない。

なぜ、あなたは自分を滅ぼそうとするのか。

(伝道者の書7:15~16)

諦観という言葉が心に浮かびます。
諦観とは、ものごとの本質を見て取ること、
ある種の悟りの境地を言います。

残念ですが、人間社会では、
正義が踏みにじられ、悪がはびこっています。

政治家は今日も平気で大嘘を言います。
大企業は目先の利益を優先し
派遣社員の人生を踏みにじります。

正しすぎてはいけない、と聖句にあります。

あまり強い義憤にかられると
自分だけが知恵者だと勘違いし
人に害を加え
結局、自滅する危険性があります。

職場の悪、社会の矛盾を見て
心が沸騰状態にある人は
ちょっと一息入れてクールダウンしましょう。

2022/08/02

弱く見える部分

それどころか、
からだの中でほかより弱く見える部分が、
かえってなくてはならないのです。
(第一コリント12:22)

体の中には目立つところと
そうでないところがあります。

顔や手は一番目につきますが、
足の裏や脇腹などは目に触れません。

目立たない部分や弱いところは
必要ないかのように扱われますが、
なくてはならない部分だと
パウロは力説しました。

教会でも、家庭でも、職場でも、
社会でも、原則は同じです。

能率、若さ、スピード、
美しさ、力などが脚光を浴びやすいのですが
そうでない部分に目を留めてみましょう。

あなたの周囲の
なくてはならないものは何でしょう。


 

2022/08/01

御霊によって進む

私たちは、御霊によって生きているのなら、
御霊によって進もうではありませんか。
(ガラテヤ5:25)

律法的な生活は人を救わないし、
十字架の福音を台無しにする。
ガラテヤ人への手紙で
パウロが主張したのはそういう事でした。

それなら、律法に代わる
生活指針はあるのでしょうか。

あります。
御霊によって生きることです。
私たちの心に住んでおられる
御霊に耳を傾け、
御霊に導かれて歩むことです。

御霊によって「進もう」という言い方は
以前よりもっと、深く、強く、
実生活で御霊を意識して歩みましょうという
チャレンジなのです。