2024/04/30

水がない

モーセはイスラエルを葦の海から旅立たせた。
彼らはシュルの荒野へ出て行き、三日間、荒野を歩いた。
しかし、彼らには水が見つからなかった。
彼らはマラに来たが、マラの水は苦くて飲めなかった。
それで、そこはマラという名で呼ばれた。
民はモーセに向かって
「われわれは何を飲んだらよいのか」と不平を言った。
(出エジプト記15:22~24)

荒野で水が見つからないので、
イスラエルの民は渇きで文句を言いました。

この事件がいつ起きたのかというと、
紅海を渡ってたったの3日目の事でした。

エジプトの奴隷状態から救い出してくれた立役者、
モーセに向かって民は激しく不平を言いました。

エジプトから救われた歓喜はあっという間に消えました。

<水がない>という出来事は
私たちのバプテスマ後の試練に似ています。

すべての罪が赦され、永遠の命を頂き、
平安と愛と生きる希望を与えられたことなどの
私たちにとっての出エジプト経験を何よりも感謝し、
主を賛美しましょう。

それらの大きな恵みを土台にしてから
水がないという問題を見つめ直しましょう。

2024/04/29

王の中庭には

「王の家臣たちも王の諸州の民も、
だれでも知っているように、
召されないのに奥の中庭に入って王のところに行く者は、
男でも女でも死刑に処せられるという法令があります。
ただし、王がその人に金の笏を差し伸ばせば、
その人は生きながらえます。
私はこの三十日間、
まだ王のところへ行くようにと召されていません。」
(エステル記4:11)

クセルクセス王がペルシャを支配していた時代、
その異国で暮らすユダヤ人には苦労が絶えませんでした。

ユダヤ人虐殺の計画を知ったモルデカイは
王宮に住むエステルに知らせ
計画を阻止するよう求めました。

エステルは不可能だと返答しました。
王の許可なく中庭に入るだけで
即刻、死刑だと告げたのです。

何もしないなら多数のユダヤ人が殺害される。
王妃のあなたも殺されるとモルデカイは警告しました。

できない理由をエステルは探していました。
でも、できる理由を探すこともできたのです。

エステルの意識は180度変えられました。
断食して祈り、主の導きを求める中で、
針の穴ほどの可能性を見つけたのです。

できない理由ではなく
できる可能性に目を向ける人は
現代のエステルです。

2024/04/28

平和をつくる者へ

平和をつくる者は幸いです。
その人たちは神の子どもと呼ばれるからです。
(マタイ5:9)

失って初めて気づくのが
平和の尊さです。

平和を大切にしましょう。

怒りや嫉妬から離れ、主の助けを頂きながら、
平安を心に与えて頂きましょう。

根源的な平和は上から来ます。
主イエスだけが与えられる平安があります。

その平安を受けた者は、自然に、
自分と他者の間に平和を作ろうとします。

さらに、他人と他人の間にも
平和を作ろうとします。

今日、あなたが
平和の器として用いられますように。

2024/04/27

みこころに添った悲しみ

今は喜んでいます。
あなたがたが悲しんだからではなく、
悲しんで悔い改めたからです。
あなたがたは神のみこころに添って悲しんだので、
私たちから何の害も受けなかったのです。
神のみこころに添った悲しみは、
後悔のない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、
世の悲しみは死をもたらします。
(第二コリント7:9~10)

誰かが罪を犯し、しかも罪を悔い改めず、
周囲の人の損害や傷が放置されたら悲劇になります。

罪を犯した人が恐れるのは罪があらわになり
人々の批判にさらされることですが、
本当は、隠れたままの方がもっと問題なのです。

パウロはコリント教会に対して
罪を責める厳しい手紙を書きました。
その結果が良かったので
ほっとして書いたのが今日の言葉です。

罪を犯した人が真実に悔い改めたのです。

罪をただ悲しむだけでは何にもなりません。
神のみこころにそった悔い改めが大事なのです。
それが罪の赦しと新しい歩みと喜びを与えてくれます。

今まで以上に優しさと強さを兼ね備えた人に
なるきっかけになります。

神のみこころにそった悔い改めは尊いです。

2024/04/26

王がなく

そのころ、イスラエルには王がなく、
それぞれが自分の目に良いと見えることを行っていた。
(士師記21:25)

これは士師記に何度か登場する
おなじみのフレーズです。

まとまりに欠ける時代で、
国を統一する王がいなくて、
サムエルのような祭司も見当たりません。

信仰的なリーダーが不在なら
人々は罪や欲に流されやすくなります。
神を捨てて自分勝手に振る舞います。

信仰深い親と同居中なら信仰維持はできても、
一人で生活すると信仰から離れることは良く起きます。

信仰的に尊敬できる人と意識的に繋がり、
会って話したり、アドバイスをもらったり
共に聖書を学び、祈りましょう。

信仰面のメンターを持つ、あるいは、
自分がメンターになる事も大切なことです。

2024/04/25

罪を赦された幸い

幸いなことよ
その背きを赦され罪をおおわれた人は。
幸いなことよ
主が咎をお認めにならず
その霊に欺きがない人は。
(詩編32:1~2)

政治家や企業のトップが
<~と感じられたのなら、おわびします>
と謝罪会見で言いますが謝罪になっていません。
受け取る側に問題があると非難しているだけですから。

それに比べて詩編32篇はさわやかです。
全面的に自分の非を認め、
神の前にも人の前にも隠し事がありません。
自分の罪を正直に認めています。

衣を裂き、自己弁護を止め、灰をかぶり、
罪を悲しみ、迷惑を与えた事を詫び、
非難の言葉を聞き、主の前に全てを明らかにする。
その砕かれた魂を神の恵みの衣が覆います。

そういう人は真に幸いなのです。

自分の罪を悔い、主の赦しを体験する。
そういう人には平安が訪れます。
どん底まで落ちても、将来が開けます。

混じりけの無い心で
ごめんなさいを言いましょう。

2024/04/24

心をご覧になる主

主がこれらのことばをヨブに語った後、
主はテマン人エリファズに言われた。
「わたしの怒りはあなたとあなたの二人の友に向かって燃える。
あなたがたが、わたしのしもべヨブのように、
わたしについて確かなことを語らなかったからだ。」
(ヨブ42:7)

ヨブ記の最後で、主はヨブを叱責され、
知識もないのに摂理を覆い隠すなと言われました。

その直後に、主はヨブの友人エリファズと
二人の友人を責め、強い怒りを伝えました。

友人たちは、ヨブに隠れた罪があると邪推して
悔い改めよと何度も攻め立てましたが、
それはお門違いだと主は指摘されました。

ヨブは神に歯向かうような事を何度も言ってきましたが、
そうであっても主はヨブの本心を受け止め、
神について確かなことを語ってきたと弁護されました。

友人に対する主の叱責を聞いて
ヨブはどんなに慰められたことでしょう。
主は、きちんと私たちの心を見て下さる方です。

2024/04/23

謙虚な王

わが神、主よ。
今あなたは私の父ダビデに代わって、
このしもべを王とされました。
しかし私は小さな子どもで、出入りする術を知りません。
(第一列王3:7)

即位直後のソロモン王は
若く、謙虚で、神の声を尋ね求める人でした。

この頃のソロモンは、
知恵者という自負もありません。

神によって王とされた事を光栄に感じていました。
ダビデという偉大な父のゆえに、
自分があると自覚していました。

何よりも、自分の不十分さを理解していました。
小さな子どもにすぎないと
自らの技量不足に気づいていました。

欠けている自分、足らない力、
経験がなく、未来も予想できない、
そういう状態はマイナスではなく、
信仰的には大きなプラスだということが分かります。


未熟さの自覚。
それは無限の神に頼るための滑走路になります。

2024/04/22

天幕の場所を

あなたの天幕の場所を広げ、
住まいの幕を惜しみなく張り、
綱を長くし、杭を強固にせよ。
(イザヤ54:2)

小さなテントでは入りきれない日が来るから、
広いテントを作りなさいという勧めで、
とても前向きなことばです。

日本風に言えば四畳半と六畳の家では小さい、
増築しなさいということです。

ところがこの箇所の前後を読むと分かるのですが、
辱めを受け、辛い状況にいた人たち、
子供を産まない女性、夫に捨てられた女に対する
言葉だったのです。

暗闇で希望を持てない今こそ、
主に信頼して、祝福を信じて、
天幕の場所を広げてみなさいと
主は励まして下さいました。


あなたは何に取り組みたいですか。
あなたの天幕とは何でしょう。

2024/04/21

わたし=ことば

主は、ご自分の働きのはじめに、
そのみわざの最初に、わたしを得ておられた。
わたしは、大昔に、初めに、
大地の始まりの前に、立てられていた。
まだ深淵もなく、水のみなぎる源もなかったとき、
わたしは生み出された。
(箴言8:22~24)

「わたし」とありますが、
これは誰か人物のことではありません。
箴言8章の文脈からいうと、
はじめから存在していた知恵、つまり<ことば>です。

箴言8章は実に不思議な章です。
知恵が人格を持つ存在として描かれているからです。(12節)
その知恵が世界の初めからあったと語られています。

30節では「わたしは神の傍らで、
これを組み立てる者であった」と述べています。
知恵、ことばが世界を創造したのです。

「はじめにことばがあった」という文章は
ヨハネの福音書の冒頭として有名ですが、
今日の聖句の新訳聖書版かもしれません。

主イエスは、神のメッセージと神の心と愛を
私たちに伝えてくれる<ことば>そのものなのです。

2024/04/20

神の人よ

しかし、神の人よ。あなたはこれらのことを避け、
義と敬虔と信仰、愛と忍耐と柔和を追い求めなさい。
信仰の戦いを立派に戦い、永遠のいのちを獲得しなさい。
あなたはこのために召され、
多くの証人たちの前ですばらしい告白をしました。
(第一テモテ6:111~12)

私もあなたも主に召されています。
何のためにでしょうか。
テモテが日々に意識していた以下の事です。

1、悪や罪を避ける
2、神への敬虔さや信仰
3、人への愛と柔和
4、信仰のゆえの戦い
5、永遠を意識する
6、人々に証しする

パウロが年若いテモテを
「神の人よ」と呼んでいます。
神に召されて牧師となった後輩に
自覚を促しつつ、尊敬を表しています。

私たちも、実際の仕事や立場は違いますが、
神の人としての歩みが期待されている者です。
神の姿に変えられつつある者です。
神に召された者です。



2024/04/19

金持ちの倉

そして、自分のたましいにこう言おう。
「わがたましいよ、これから先何年分もいっぱい物がためられた。
さあ休め。食べて、飲んで、楽しめ。」
しかし、神は彼に言われた。
「愚か者、おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。
おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。」
自分のために蓄えても、神に対して富まない者はこのとおりです。
(ルカ12:19~21)

これは主イエスのたとえ話です。
畑が大豊作になり、倉を作った金持ちが
今後は何年も働く必要がないと喜ぶ話ですが、
その夜、命が取られるという内容です。

その晩、金持ちの命が終われば、
貯めたものは手元から離れてしまいます。

お金をためるのが悪いわけではありません。
仕事の成功は素晴らしい祝福です。
神に対して富まない生き方が問題なのです。

自分の蓄えと自己満足にとらわれず、
誰かに与える、分ける、寄付する、社会に役立てる、
神のためにささげるなどの形で有効利用しましょう。

本当の資産活用は神の視点ですべきです。
命あるうちに、富を神と人のために用いましょう。


2024/04/18

待ち望みます

私は主を待ち望みます。
私のたましいは待ち望みます。
主のみことばを私は待ちます。
私のたましいは夜回りが夜明けを
まことに夜回りが夜明けを待つのにまさって
主を待ちます。
(詩編130:5~6)

「待つ」ということばが繰り返されています。
何回出てきますか?

夜の警備担当者は
暗くて寂しくて危険で寒い夜が
早く終わってほしくて
日の出を待ちます。

どんな時、信仰者は待つのでしょう。
自分で問題を打開できない時です。
自分の力が弱く感じる時です。
希望が実現しない時です。
病、試練、困難、圧迫が激しい時です。

そんな時、私たちは待ちます。
信仰を持って待ちます。
主が語って下さる言葉を待ちます。
実生活への神の介入を期待します。
神ご自身との出会いを待ち望みます。


待つこと。それは信仰です。

2024/04/17

高ぶって

もし、あなたが高ぶって、愚かなことをしたり、
企んだりしたら、手を口に当てよ。
乳をかき回すと凝乳ができる。
鼻をねじると血が出る。
怒りをかき回すと争いが起こる。
(箴言30:32~33)

私たちの仕出かした罪、失敗を思い出して下さい。
その時、心はどんな状態でしたか。

ひどい事をしたり言ったりする前に
高ぶり警告ランプを無視しませんでしたか。

プライドが強く激しやすい人は
周囲をかき回す事になります。

怒りをかき回すと争いを作ります。

かき回すことが役立つのは
生クリームの泡立てくらいです。

ぷんぷん火山、イライラ姉さん、
うわさの発火点、暴言議員、クレーマー
などにならないように、
手を口に当てておきましょう。


2024/04/16

聖霊に満たされたペテロ

彼らは二人を真ん中に立たせて、
「おまえたちは何の権威によって、
また、だれの名によってあのようなことをしたのか」と尋問した。
そのとき、ペテロは聖霊に満たされて、
彼らに言った。「民の指導者たち、ならびに長老の方々。」
(使徒4:7~8)

聖霊に満たされる時とはどんな時でしょう。

ペテロは逮捕され、議会に引き出され、
祭司長、律法学者、議員たちに囲まれて
取り調べを受けていました。

漁師で無学なペテロでは、
権力者たちに太刀打ちできません。
ペテロが失言すれば、即、死刑です。

聖霊は、静かに確実にペテロを包み、
助けが必要なタイミングで
彼を満たして下さいました。
ペテロは堂々と語り、権力者たちは舌を巻き、
神の栄光が現れました。

聖霊なる神よ、最も必要な時に私を満たし、

あなたのご栄光のために用いて下さい。

2024/04/15

赦します

私たちの負い目をお赦しください。
私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します。
(マタイ6:12)

「赦して下さい」と祈ることが時折あります。
罪を自覚した時に祈ります。

私たちの祈りの中で頻度が少ないのは、
「赦します」という祈りです。

主の祈りの主なテーマは
神のみこころが行われる事であり、
私たちを守ってくださいという内容です。

主の祈りの中に、
隣人への愛を増して下さいとか、
人に与える者になれますように、
という祈りはありません。

みこころがなるようにという祈りが
隣人愛の実践を促すのでしょう。

良く考えてみると、
負い目のある人たちを赦しますという言葉に
隣人愛が集約しているかもしれません。

最高度の愛は、ゆるす愛です。

2024/04/14

あらゆる民族

地の果てのすべての者が思い起こし
主に帰って来ますように。
国々のあらゆる部族も
あなたの御前にひれ伏しますように。
(詩編22:27)

ただ一人の神に栄光があるように。

世界中の人は一人の造り主によって造られ、
命を与えられました。

それで、顔や姿や言葉や文化は違っても
一人の神に立ち返ることができるのです。

22篇は主イエスの苦難を預言した詩編で、
深い苦悩や落胆が歌われています。
その最後を飾る部分に、
今日の聖句があります。

主イエスが十字架上で望まれたことは
まさにすべての民族の救いだったのでしょう。

世界が主に帰ってきますように。

2024/04/13

罪を犯さないため

私の子どもたち。私がこれらのことを書き送るのは、
あなたがたが罪を犯さないようになるためです。
しかし、もしだれかが罪を犯したなら、
私たちには、御父の前でとりなしてくださる方、
義なるイエス・キリストがおられます。
この方こそ、私たちの罪のための、
いや、私たちの罪だけでなく、
世全体の罪のための宥めのささげ物です。
(第一ヨハネ2:1~2)

使徒ヨハネは、次の事を伝えたいのです。

1、主イエスを信じた者の罪は赦された。
2、信仰者は罪から離れて生活できる。

もしもキリスト者が罪を犯してしまった場合でも
心配いらないというのです。
父なる神の前で弁護し、とりなしてくださる方、
完全に義なるイエスさまがおられるからです。

主イエスがなだめのささげ物となられ
主イエスの命が私たちをさばきから遠ざけて下さいました。

罪から離れて歩み、愛と福音を隣人に届け、
主の栄光のために生きていきましょう。
私たちは神の子とされています。
主イエスは頼もしい弁護士です。

2024/04/12

この地を与える

主はアブラムに現れて言われた。
「わたしは、あなたの子孫にこの地を与える。」
アブラムは、自分に現れてくださった主のために、
そこに祭壇を築いた。
(創世記12:7)

この少し前の4節に、アブラハムの年齢が
七十五歳だと書いてあります。
それは子供を与えられるには
不可能な歳だと言いたいのです。

主はアブラハムに約束されました。
子供を与えよう。その子孫にこの土地を与えよう。

素晴らしい祝福の約束をもらえたのは、
「わたしが示す地に行きなさい」という
主の命令にアブラハムが
従ったからでしょう。

主を第一にする。主の声を聞く。
主を信頼し、困難があってもみこころに従う。

アブラハムは主の約束を感謝し記憶に留めるため
祭壇を築きました。

あなたはどんな約束を頂きましたか。

あなたの祭壇は何ですか。

2024/04/11

自分が分からない

私には、自分のしていることが分かりません。
自分がしたいと願うことはせずに、
むしろ自分が憎んでいることを行っているからです。
(ローマ7:15)

罪を犯す時の心理は
とても理性的とは言えません。

見つかれば軽蔑される事であっても、
やってしまいます。

パウロが言うように、
自分のしていることが自分で分からないのです。

自分が極度に憎んでいることすら
してしまいます。

自分という列車が自分で止められず、
どんどんスピードを上げるようなら、
その列車から飛び降りましょう。
大怪我をしますが、命は助かります。

それが悔い改めであり、告白です。

不可解な自分が嫌いでも、
神はそんなあなたを愛して包んで下さいます。

2024/04/10

その方は

ナオミは嫁に言った。
「生きている者にも、死んだ者にも、
御恵みを惜しまない主が、その方を祝福されますように。」
ナオミは、また言った。
「その方は私たちの近親の者で、
しかも、買い戻しの権利のある親類の一人です。」
(ルツ記2:20)

姑ナオミは嫁のルツに励まされていました。
年寄りを大切にして、一生懸命働いてくれます。

ルツの働く畑を知って
ナオミは驚きました。

ルツに親切にしてくれた畑の所有者が
ナオミにとっての近い親戚だったのです。
しかも、ナオミの夫が失った土地を
買い戻す権利のある人物だったのです。

偶然とは思えないほどの
ピンポイントの合致です。

「偶然に」とか「たまたま」と私たちは言いますが、
神の深いご配慮があるのです。
あなたにも愛のサプライズが起きますように。

御恵みを惜しまない主よ、祝福を見せて下さい。

2024/04/09

若芽のように

彼は主の前に、ひこばえのように生え出た。
砂漠の地から出た根のように。
彼には見るべき姿も輝きもなく、
私たちが慕うような見栄えもない。
(イザヤ53:2)

イザヤはある人物について詳しく書きました。

でも、イザヤがスポットライトを当てた人は
人々が注目するようなものを一切持っていません。

背が高い、髪の毛が豊か、美しい、
お金がある、力がある、などが
人々が注目する点ですが、
そうした見栄えが一切ないのです。

大木の切り株の横から生える若枝、
ひこばえ、若芽のような存在なのです。

神であるイエスさまが人になられましたが、
人々が慕うような見栄えが一切ない人として
この地上に来られました。

謙虚なままで生涯を過ごされ、十字架につかれたお方、
低くなって下さったイエスさまを心からたたえます。

2024/04/08

まだ見ぬ祝福

そして、見よ、主がその上に立って、こう言われた。
「わたしは、あなたの父アブラハムの神、イサクの神、主である。
わたしは、あなたが横たわっているこの地を、
あなたとあなたの子孫に与える。」
(創世記28:13)

ヤコブはみじめな境遇にいました。
兄に憎まれ殺されそうになり、
実家から夜逃げしてきたのです。

一人ぼっちで、未来などなく、
自分を持て余していた夜でした。
石を枕に野宿した場所で、
主は今日の言葉を言われたのです。

あなたが寝ていたこの地を与えよう。
あなたには子供が大勢与えられる。
その子孫は民族となり、この地を継ぐだろう。

ヤコブは若く、わがままで、結婚相手などいませんでした。
その上、信仰のあやふやな男でした。
それなのにです。恵が雨のように注がれました。

わたしはアブラハムの神、イサクの神であると主は言われました。
あなたの祖父、あなたの父、そしてあなたと共にいると約束されました。
ヤコブの生涯は、神の一方的な選びと、深い愛と、
絶大な祝福の約束によって新たなページが開かれたのです。

あなたにも素晴らしい未来が輝いています。

2024/04/07

神が味方

では、これらのことについて、どのように言えるでしょうか。
神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。
私たちすべてのために、
ご自分の御子さえも惜しむことなく死に渡された神が、
どうして、御子とともにすべてのものを、
私たちに恵んでくださらないことがあるでしょうか。
(ローマ8:31~32)

子供の頃、スポーツや遊びでも、
あの人が自分のチームにいるから大丈夫、
きっと勝てるという頼もしい人がいましたね。

私たち信仰者はそれと同じことを言えます。
神が私たちの味方なので私たちは負けない。

父なる神は、そのひとり子イエスさまを
私たちに与えるという犠牲を払われました。
それ以上の愛と犠牲は存在しません。

あなたには敵がいると感じていますか。
今日の聖句から言えば、
私たちには敵と言えるものは無いのです。

神が味方なのです。どーんと構えましょう。
神が共におられるので私たちは無敵なのです。

2024/04/06

信じますか

「また、生きていてわたしを信じる者はみな、
永遠に決して死ぬことがありません。
あなたは、このことを信じますか。」
(ヨハネ11:26)

最初に福音を聞いた時に心に残る言葉は、
あなたの罪は赦された、ということです。

次に私たちが知るようになるのは、
信じる者は死なない、という主イエスの約束です。

罪の赦しは感謝して気持ちがついていきますが、
永遠の命に関してはポカンという感じですね。

改めて今日の言葉を心で思い巡らせて下さい。
生きていてイエスさまを信じる者は、
決して死なないのです。

これはイエスさまの口から出た
はっきりとした約束です。

人生の秋から冬を迎えた人には
決して死なないという言葉は希望になります。

病院のベッドに寝ている人にとっては
まさに福音となる力強い言葉なのです。

あなたは、このことを信じますか。

2024/04/05

切り株が残る

私が「主よ、いつまでですか」と言うと、
主は言われた。「町々が荒れ果てて住む者がなく、
家々にも人がいなくなり、土地も荒れ果てて荒れ地となる。
主が人を遠くに移し、この地に見捨てられた場所が増えるまで。
そこには、なお十分の一が残るが、それさえも焼き払われる。
しかし、切り倒されたテレビンや樫の木のように、
それらの間に切り株が残る。この切り株こそ、聖なる裔。」
(イザヤ6:11~13)

ユダヤ王国は滅び、都は荒地になり、
町は燃やされ、多くの人が亡くなり、
異国に連れて行かれました。

ユダヤ人はたとえるなら大きな樫の木でした。
ある日、その大木は幹から切り倒されたのです。
望みは失せたと誰もが思いました。

注意深く見るなら十分の一が残されていました。
多くの年月の後、
異国から帰還した者もエルサレムに戻りました。
それらの人々が切り株として生き残ったのです。

息絶えたと思えた民族の子孫に聖なる裔、
神の子イエスさまがお生まれになりました。

たとえ今、焼け野原に見えても切り株は残っています。
やり直せます、立ち上がれます。
残された切り株から希望の新芽が出てきます。

2024/04/04

私の喜び、冠よ

ですから、私の愛し慕う兄弟たち、
私の喜び、冠よ。
このように主にあって堅く立ってください。
愛する者たち。
(ピリピ4:1)

パウロの残した言葉の中で
最も喜びにあふれたフレーズかもしれません。
さわやかで、親密感があり、伸びやかさがあります。

パウロとピリピ教会の関係は
とびきり良い状態でした。
コリント教会と比較すると、
天地の差を感じます。

パウロはピリピ教会を特別に愛しており、
誇りであり、冠であると感じていました。
ピリピの人々もパウロ先生を尊敬し
できることをさせて下さいという献身的な姿勢でした。

そのような関係を誰かと築けると良いですね。
あなたにとっての冠、喜びは誰ですか。

2024/04/03

走れアヒマアツ!

見張りは言った。
「最初の者の走り方は、ツァドクの子
アヒマアツのもののように見えます。」
王は言った。「あれは良い男だ。良い知らせを持って来るだろう。」
アヒマアツは王に「平安がありますように」と叫んで、
地にひれ伏して、王に礼をした。彼は言った。
「あなたの神、主がほめたたえられますように。
主は、王様に手向かった者どもを引き渡してくださいました。」
(第二サムエル18:27~28)

クーデターを起こしたダビデの息子アブサロムは
父の命を狙い軍を率いて進みました。

アブサロムは戦いの中で命を落としたので、
伝令がダビデ王に知らせるため走って出発しました。
それを見て、アヒマアツは将軍に直談判し、
二人目の伝令役にしてもらいました。

ダビデ王が息子の死を激しく嘆くことが予測できたので、
少しでもその悲しみを緩和して差し上げあげたいと
アヒマアツは考えたのです。

走れアヒマアツ! 彼は無我夢中で駆けました。
彼は別の道を選び、先を走る伝令を追い抜きました。
そしてダビデ王に息子の死をほのめかす報告ができました。

アヒマアツの行動を無駄と笑う人もいるでしょう。
でも誰かを愛するゆえの無駄は一つもないのです。

2024/04/02

広場に老人

──万軍の主はこう言われる──
再び、エルサレムの広場に、
老いた男、老いた女が座り、
みな長寿で手に杖を持つ。
都の広場は、男の子と女の子でいっぱいになる。
子どもたちはその広場で遊ぶ。
(ゼカリヤ8:4~5)

エルサレムが滅び、
ユダヤ人は捕囚となってバビロンに連れて行かれました。
長い年月の末、エルサレムに帰還が許されました。
けれども町は廃墟で、神殿も破壊されたままでした。

そこで預言者ゼカリヤやハガイは神殿建設をするように
人々を励ましました。

また、主の言葉をみんなに伝え、
エルサレムの広場がどうなるか
将来の姿を示しました。

長寿のお年寄りが広場に集まる姿は
微笑ましい光景で平和な証拠です。

幼い子供が楽しく広場で遊べるのは
安全が約束されたからです。

どの教会にも長生きのお年寄りと
たくさんの子供たちが集いますように。

2024/04/01

パウロを励ます人たち

ローマからは、私たちのことを聞いた兄弟たちが、
アピイ・フォルムとトレス・タベルネまで、
私たちを迎えに来てくれた。
パウロは彼らに会って、神に感謝し、勇気づけられた。
(使徒28:15)

パウロを励ます人がいました。
ローマから出迎えに来てくれた人です。

私たちが東京に向かう時に、知り合いの人が
小田原や熱海まで迎えに来てくれる事と同じなので、
パウロの喜びが想像できます。

ローマ帝国の首都ローマは、
パウロにとっての未知の大都会でしたから
そこに住む人の出迎えは心強かったはずです。

ローマに住んでいたクリスチャンたちは
パウロが来たことを知って喜び、
じっとしていられませんでした。

パウロを励ます人達がいたのです。

私たちも誰かを励ますことができます。