2022/09/30

愛されてます

しかし、あわれみ豊かな神は、
私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、
背きの中に死んでいた私たちを、
キリストとともに生かしてくださいました。
あなたがたが救われたのは恵みによるのです。
(エペソ2:4~5)

「神さまはあなたを愛していますよ」と
一般の人に言うと、薄い反応が返ってきます。
言われて悪い気はしないけど、ピンと来ないという顔をします。

それは、神が誰か分からないし、神がいるかどうかも不明で、
その上、自分に愛される価値が無いと思っているからです。

今日の聖句には、神が私たちを愛していると
はっきり書いてあります。
神はあわれみ深い方なので、
罪に死んだ状態の私たちをも受け入れて下さいます。

有名な讃美歌、アメージング・グレイスの言葉通り
驚くべき恵みを受けているのです。

神の愛は私たちにいのちを与え、
私たちを救ってくれるのです。

2022/09/29

きよさ

神が私たちを召されたのは、
汚れたことを行わせるためではなく、
聖さにあずからせるためです。
(第一テサロニケ4:7)

何のために生きていますかと尋ねると、
きっと色々な答えが返ってくるでしょう。

けれども、
みんなが思いつかないことが一つあります。
それは、きよく生きるため、です。
私たちは本来、きよく歩むように造られているのです。

私たちは他人の嘘が嫌いで、
裏切りや不正にも目をしかめます。
暴力や殺人などもってのほかです。
汚れた行動はゆるせないのです。
それは、私たちの心のセンサーに
きよさが埋め込まれているからです。

イエス・キリストの言葉や行動には
正しさと愛だけでなく、きよさが漂っています。

私たちも神のきよさにあずかる者になりましょう。
キリスト者が身にまとうべきパフュームは聖さです。

2022/09/28

KYかKAか

キリストのうちに根ざし、
建てられ、
教えられたとおり信仰を堅くし、
あふれるばかりに感謝しなさい。
(コロサイ2:7)

近所に建築中の家があると
そのプロセスが興味深いので
つい見入ってしまいます。
最近は地震対策を入念にするので
コンクリートの土台工事に時間をかけますね。

私たちはキリストという基礎に根ざします。
その確かな土台の上にだけ家を建てます。
柱を立て、梁を渡し、枠組みを堅くつなぎます。

キリストに根ざすには
聖書を読まないと始まりません。
礼拝を大切にする必要がありますね。
キリストを伝えることも大事です。

そして、感謝の心がどうしても不可欠です。
ときたまに感謝するではまったく足りていません。
あふれるばかり感謝しなさいと書いてあります。

あの人、K(空気が)Y(読めない)ねと
昔、言いましたね。

今度はKAを流行させたいと思います。
あの人KAだね。
(感謝に、あふれてる)



2022/09/27

牧場から君主へ

今、わたしのしもべダビデにこう言え。
「万軍の主はこう言われる。
わたしはあなたを、
羊の番をしていた牧場から取り、
わが民イスラエルの君主とした。」
(第二サムエル7:8)

国王になり、国が安定した後、
ダビデは何をすべきかを考えました。

主のために神殿を建設したい。
その構想を温めていた最中に、
主が今日の言葉を言われました。

今の成功と繁栄はダビデの能力ではなく
主の恵みである事を忘れるなという意味です。

ダビデはかつて一介の羊飼いで、
野原で寝起きしていました。
それが今では王宮に住み
大勢の部下を持っています。

あなたにとっての
<牧場から君主へ>とは何でしょう。

人生を振り返り、
主がして下さった恵みを数えてみましょう。

2022/09/26

モーセという指導者

その翌日になって、
モーセは民に言った。
「あなたがたは大きな罪を犯した。
だから今、私は主のところに上って行く。
もしかすると、
あなたがたの罪のために宥めをすることが
できるかもしれない。」
(出エジプト記32:30)
 

モーセがシナイ山に上り神と過ごしていた時、
地上ではアロンが金の子牛を作り
民が偶像礼拝の罪を犯しました。

戻って来たモーセはそれを見て強く怒り
厳しい処罰を下しました。

モーセは再びシナイ山に登る時
今日の言葉を述べましたが、
モーセとしては珍しく
含みのある言い方をしました。

自分の命と引き換えに
民の赦しを主に願うつもりだったのです。
神の書物から私の名前を消し去って下さいと
主に申し出る覚悟でした。

モーセの愛と自己犠牲の姿は
やがて来られる救い主を暗示しています。

2022/09/25

不都合な事実

王は民の祭司長たち、
律法学者たちをみな集め、
キリストはどこで生まれるのかと問いただした。
彼らは王に言った。
「ユダヤのベツレヘムです。
預言者によってこう書かれています。
(マタイ2:4~5)

東方の博士達がユダヤ人の新王の誕生を祝いにやって来たので、

ヘロデ王は動揺して律法学者達に、

そのキリストとか王とか呼ばれる者は

どこで生まれるのかと尋ねました。


祭司長達も律法学者も皆知っていたので即答しました。

それはベツレヘムです。ミカ書5章2節にある通り、

出典も明瞭で、宗教者の中では周知の事実でした。


ヘロデは、救い主の誕生を受け入れたくないので

ベツレヘムの赤ちゃんを虐殺しました。


祭司長も律法学者は、主イエスの公生涯の間に、

誕生場所について批判めいた事は一言も言えませんでした。

信じたくないから真実に目を背けるのです。


現代人も同じです。信じたくないから信じないのです。


不都合な事実に見えますが、

その真理が私たちを救い、自由にしてくれます。

2022/09/24

バルクよ

「あなたは言った。ああ、私はわざわいだ。
主は私の痛みに悲しみを加えられた。
私は嘆きで疲れ果て、憩いを見出せない、と。」
(エレミヤ書45:3)

「あなた」とは預言者エレミヤの弟子、

バルクのことです。


エレミヤは、エルサレムの滅びとか

罪の悔い改めを熱心に語るので
世間の受けはとても悪く
弟子のバルクも苦労しました。

エレミヤが語る言葉をバルクが巻物に書き、
それを人々に代読しました。

人々の反応が悪く、バルクも疲れ果て、
もうやっていられないと言ってしまったのです。

主はバルクの愚痴を聞いておられました。

主はバルクの嘆きに理解を示しながら、
慰めと約束をこの後で示されました。

主は今日も、
あなたの嘆きを受け止めて下さるお方です。

2022/09/23

山に向かって

私は山に向かって目を上げる。
私の助けは、どこから来るのか。
私の助けは主から来る。
天地を造られたお方から。
(詩篇121:1~2)

121篇は有名で、美しく、
みんなが大好きな箇所です。

大きな山が目の前に現れると
私たちはその場に立ちつくし
言葉にならない感動をかみしめながら
しばらく山頂に目を向けるものです。

人間よりもはるかに大きな山を見て、
神々しさや畏怖の念をおぼえるのは

山の背後におられる「造り主」を肌で感じるからです。

山を見ればわかります。
神は確かにおられます。

天地を造られたまことの神は、
ちっぽけで自分勝手で弱い
私やあなたを助けて下さるスケールの大きな方なのです。

2022/09/22

すてきな嫁

その子はあなたを元気づけ、
老後のあなたを養うでしょう。
あなたを愛するあなたの嫁、
七人の息子にもまさる嫁が、
その子を産んだのですから。
(ルツ記4:15)

ナオミは生まれたばかりの孫、
オベデを腕に抱いていました。

近所の女性達は赤ちゃんの顔を見ながら
ナオミと一緒に喜んでくれて、
良い嫁に恵まれたね、
七人の息子にまさる嫁だとほめてくれました。

ナオミは夫を失い、
愛する二人の息子も亡くして
失意の中で故郷に帰って来たのが
それが遠い過去のように思えます。

主のあわれみの中で
嫁のルツがボアズと結婚。
初孫オベデの誕生となりました。

オベデはダビデの祖父です。

人生には大逆転があるのです。
こんなに仲良くなれる嫁姑がいるのです。

2022/09/21

静かに考える

私は、あなたのなさったすべてのことを思い巡らし、
あなたのみわざを静かに考えます。
(詩篇77:12)

自分の弱さに気づいて、
昔からの神のみわざに思いを馳せ、
その上で静かに考えています。

ところで、
同じことをぐるぐる考える事と

思い巡らすとはどう違うでしょう。

堂々巡りとは、
<否定的思考>洗剤をたっぷり入れて、
<心配という名>の洋服を投げ入れ、
停止ボタンの壊れた洗濯機で洗うことです。

一方、思い巡らすとは、
感謝を数えて主を賛美する事から始めます。
起きたすべての事を色々な角度から見つめます。
主のお考えはどこにあるのか見定めます。
自分に与えられている役割が何かを点検します。
思い巡らすことを終えると、
穏やかで温かく、前向きな気持ちになっています。

主のみわざを静かに考えてみましょう。

2022/09/20

ナンバー2の美学

見よ。わたしは、ダン部族に属する、
アヒサマクの子オホリアブを
彼とともにいるようにする。

わたしは、すべて心に知恵ある者の心に知恵を授ける。
彼らは、わたしがあなたに命じたすべてのものを作る。
(出エジプト記31:6)

幕屋建設の総責任者はベツァルエルでした。
彼はデザインをしたり、工事監督もしました。
扱う材料は、木材、宝石、金、布、革など多岐に及ぶので
大変な作業になりました。

主任デザイナー・設計者の意図を汲んで補佐する人が必要でした。
それがオホリアブです。

ナンバー2という位置は難しいものです。
主任のねらいを適格に判断し、でしゃばらず、
側面から助ける仕事です。

弦楽四重奏の第二バイオリンに似ています。
地味な和音を正確に忠実に演奏してくれると
第一バイオリンのメロディーが際立つのです。

あなたは主任になるタイプですか、
オホリアブのように副主任、補佐タイプですか。
ナンバー2の美学に徹しましょう。

2022/09/19

今日も明日も

しかし、わたしは今日も明日も、
その次の日も進んで行かなければならない。
預言者がエルサレム以外のところで
死ぬことはあり得ないのだ。

(ルカ13:33)

パリサイ人が主イエスにこう言いました。
ヘロデがあなたを殺そうとしている、
エルサレムから離れたほうが身のためだと。
それに答えたのが今日のみことばです。

主イエスは迫害や死を恐れていません。
むしろ当然やって来るものと覚悟していました。

それで、今日も明日も次の日も
福音のための働きを止めず、
十字架への道を歩き続けると言われたのです。

今日も明日も次の日も、どんな困難が待っていても、
あなたが続けたいことは何ですか。

推進力は聖霊が下さいます。
神のみことばが大きな支えになります。
イエスさまの後ろ姿が私たちを奮い立たせてくれます。

私たちも進んでいきましょう、
今日も明日もその次の日も。

2022/09/18

来てほしい

デマスは今の世を愛し、
私を見捨ててテサロニケに行ってしまいました。
また、クレスケンスはガラテヤに、
テトスはダルマティアに行きました。
ルカだけは私とともにいます。
マルコを伴って、一緒に来て下さい。
彼は私のために役に立つからです。
(第二テモテ4:10~11)

パウロは鉄人ではありません。
寂しくなることもありました。

ローマに到着した当初は
多くの弟子たちや支援者に囲まれていましたが、
時間がたつと一人また一人と去って行き、
最後に残ったのはルカだけでした。
本当にルカは信頼できる人です。

裁判の雲行きがあやしくなってきた事もあり、
パウロは愛弟子テモテに手紙を書きました。
私のそばに来てほしい。
マルコも連れて来てほしい。

喧嘩別れしたマルコと仲直りしたい、
このままでは死ねないと感じていたようです。

この手紙が絶筆となりました。
パウロは残された時を大切な人と過ごしたいと思ったのです。

私たちにも、そばにいて欲しい人がいます。
共に過ごす時間を大切にしましょう。

2022/09/17

砕かれて

神へのいけにえは、
砕かれた霊。
打たれ、砕かれた心。
神よ、
あなたはそれをさげすまれません。
(詩篇51:17)

最も尊く美しいものは何でしょう。
それは、砕かれた心です。

罪を告白し、言い訳をせず、
事実をありのままに認め、
頭をたれて主の前に立つ人は
神に喜ばれる真の礼拝者です。

あるバイブルキャンプの最終日の夜を私は覚えています。
キャンプファイアーの炎を皆で囲んでいました。
心から賛美し、参加者の真実なあかしを聞き、
最後に目を閉じてみんなで祈りました。
スタッフの誰かがキャンプファイアーの薪を
倒してシャベルで砕く音がしたので、
炎を消さないでほしいと祈りの間は思っていました。
長い祈りが終わって目を開けてみると
地面に星形の光が幻想的に揺れていました。
薪の燃えカスが粉々に砕かれ、
小さな光になってキラキラ輝いていました。

キャンプファイアーの炎より
キャンプ参加者の砕かれた心のほうがもっと美しかったです。

神へのいけにえは、砕かれた霊です。


2022/09/16

お手入れ

何を見張るよりも、
あなたの心を見守れ。
いのちの泉はこれから湧く。
(箴言4:23)

肌が乾燥している。
髪に元気がない。

女性は自分の肌や髪の毛の状態を
毎日観察してお手入れを怠りません。
(あまり気にしない人もいます)

男性にも女性にも
見つめてほしいものがあります。
それは自分の心です。

心を見るための鏡は聖書です。
神のことばが私たちの今の状態を映してくれます。

祈りによって神の前に静まると、
主が下さる霊的な栄養クリームが
かさかさした心をうるおしてくれます。

主の慰めと励ましで
いのちの泉が湧き上がってきます。

あなたの心を大切に。

2022/09/15

圧倒的な存在感

それからイエスは、
ガリラヤの町カペナウムに下られた。

そして安息日には人々を教えておられ、
人々はその教えに驚いた。
そのことばに権威があったからである。
(ルカ4:31~32)


アメリカ出張中の政府高官の

記者会見を見たことがありますが、

私は驚いて呆れました。

よくあれだけ傲慢に話せるものだと。


カペナウムの人々が主イエスの話を聞いた感想は

別な意味での驚きでした。

権威ある者として語る姿に皆が感動したのです。


もし主イエスの中に傲慢さや

冷たい態度を感じたら

聴衆は冷ややかに帰った事でしょう。


違うのです。

最高の権威を持たれた方、

神がそこにおられるように感じたのです。


主イエスは愛に溢れた温かい人格と

きよい心と謙虚な人柄と共に

力ある神としての存在感を持っておられたのです。

2022/09/14

福音を見た人

イエスの正面に立っていた百人隊長は、イエスがこのように息を引き取られたのを見て言った。「この方は本当に神の子であった。」(マルコ15:39)

相撲なら砂かぶり、

コンサートなら最前列。

百人隊長は主イエスのすぐ前に立っていました。


彼は刑の執行に不手際が無いように

そのすべてを監督していました。

今まで多数の死刑執行に立ち会い、

悪態、泣き叫び、呪いの数々を見たことでしょう。


主イエスが弟子に武力蜂起を迫ったり、

ローマ政府批判で民衆を扇動したりしないか、

百人隊長はイエスの言動を注視してきましたが、

主イエスが息絶えた時、

思わずこの言葉が口をついて出てきました。


この方は本当に神の子であった。


こんな最期を見た事がないという驚きです。


主イエスは苦しい息の中で

百人隊長に「福音」を見せたのでした。

2022/09/13

失望に終わらない希望

 忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと、私たちは知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。(ローマ人へ5:4~5)

苦しいだけの人生はつらいです。

パウロは誰よりも苦労した人ですが、

苦しみが生み出す良きものに気づいた人です。


苦難は忍耐する力を養ってくれます。

忍耐が良い人柄を作ります。

そして、信仰を土台とした希望を与えてくれます。


聖霊の励ましや神の愛の守りが

私たちを取り巻いて、

失望に終わらない希望を

私たちに見せてくれるのです。


マイナスと思えるものがプラスに変わります。

私達の人生は素晴らしいどんでん返しの連続です。


失望で終わらない希望があるのです。

2022/09/12

シンプルな福音

私があなた方に最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次の事です。キリストは、聖書に書いてあるとおりに、三日目によみがえられたこと、また、ケファに現れ、それから十二弟子に現れたことです。(第一コリント15:3〜5)

宣教のはじめに主イエスは

悔い改めて福音を信じなさいと言われました。


主イエスは当初、福音が十字架と復活だとは話していません。

聴衆は主イエスの奇跡と教えから福音を体感していたのです。


後になってパウロが福音の内容を整理して解説しました。


 福音は最も大切なもので、パウロも信じ受け入れました。

人の罪が赦される内容だから最も大切な真理なのです。


 福音の中心は主イエスの死と復活です。

それは聖書に書いてあった預言に合致します。

 主イエスの復活は多数の証人によって裏付けられました。

 

パウロはこの福音を伝える事を人生の目的としました。

 真理はシンプル。福音は十字架と復活です。

2022/09/11

人間にできること

 族長たちはヨセフをねたんで、彼をエジプトに売りとばしました。しかし、神は彼とともにおられ、あらゆる苦難から彼を救い出し、エジプト王ファラオの前で恵みと知恵を与えられたので、ファラオは彼をエジプトと王の全家を治める高官に任じました。(使徒の働き7:9~10)

ヨセフの兄たちができた事はわずか二つでした。

憎むこと、そして、奴隷として売り飛ばすこと。


私達は人を恐れますが、

人間はこの程度のことしかできません。


神がヨセフのためにしてくれたことは四つあります。

どんな場所でも共にいる。

苦難から救い出す。

恵みと知恵を授ける。

高い地位に引き上げる。


こんな素晴らしい神さまは

ヨセフだけの神ではありません。

あなたの神です。

主はあなたと共におられます。


2022/09/10

人は人

イエスはペテロに言われた、

「わたしが来るときまで彼が生きるように

わたしが望んだとしても、あなたに何の関わりがありますか。

あなたは、わたしに従いなさい。」(ヨハネ21:22)


ペテロは、仲間のヨハネが気になりました。

若いヨハネはどんな人生を歩むのだろう。


そこで、この人は今後どうなるのでしょうねと

ヨハネの事を主イエスに尋ねました。

ペテロはちょっと日本人みたいです。


すると主は言われました。ヨネハはヨハネだ。

ペテロよ、あなたはあなたの人生を選びなさい。


私はアメリカに長く住んでいたので

こういうものの言い方は好きです。


人の生き方をコピー&ペーストするなんて無意味です。

その代わり、自分らしく歌い、自分らしく絵を描き、

自分らしく主に従いたいです。


主もそれを望んでおられます。

2022/09/09

栄光と力を主に

もろもろの民の諸族よ
主に帰せよ。
栄光と力を主に帰せよ。
御名の栄光を主に帰せよ。
ささげ物を携えて
主の大庭に入れ。
(詩篇96:7)

想像してみましょう。
世界中の国の代表者や王たちが
オリンピックの開会式のように一か所に集まり、
まことの神を礼拝する場面を。

この壮大なビジョンはダビデ王の時代から、
否、アブラハムの時代からの願いでした。

軍事力や経済力を誇ることなく
搾取と武力と策略を捨て、
世界の人々が過去の過ちを互いに赦し合い
言語や文化の違いを乗り越えて
手をつないでまことの神を賛美できたら
どんなに素晴らしいでしょう。

さあ、もろもろの民よ
神に栄光を帰そう。

真の国際協力と交流は
同じ主を礼拝するところから始まります。

栄光が神にありますように。

2022/09/08

羊飼いと羊

わたしの羊たちはわたしの声を聞き分けます。
わたしもその羊たちを知っており、
彼らはわたしについて来ます。
(ヨハネ10:27)

羊は、羊飼いの声を聞き分けます。

なにしろ羊飼いは羊が生まれた時から
世話をしているので、
「食事だよ」と羊飼いが叫べば
遠くにいても羊はすぐに集まってきます。

羊飼いのほうも、羊を良く知っています。
どの羊も同じように見えますが、
羊飼いは羊の個体差が分かっています。

これは、主イエスと私たちの関係に
そのまま当てはまります。

主イエスは私たち一人一人について
詳しく知っておられます。
私たちも主イエスの声を聞き分けて
今日も、主イエスについて行きましょう。

私達は主の牧場の羊です。

2022/09/07

正しくあり得ようか

人は神の前に正しくあり得ようか。
その造り主の前にきよくあり得ようか。
(ヨブ記4:17)

「自分は善良に生活している」
「私は正しく生きている常識人だ」
まじめな人は自分の事をそう思い、
罪人だとは考えないものです。

それは、自分のしてきたことにフタをしているか、
記憶にないから言える事です。
都合の悪い時には嘘をついてきたはずです。
小さな不正を上手にそっとしてきました。

神の完全な正しさときよさの前に出たなら、
私たちの汚れは一目瞭然です。

ですから、自分の醜さや罪に気づくために
まことの神の前に定期的に出るということは
とても大切なことです。
それによって謙虚な心を与えられます。

きよい造り主の前に出て、自分を振り返る。
日曜礼拝はそういう意味でも意義が深いのです。

2022/09/06

何度も旅をして

何度も旅をし、川の難、盗賊の難、
同胞から受ける難、異邦人から受ける難、
町での難、荒野での難、海上の難、
偽兄弟による難にあい、労し苦しみ、
たびたび眠らずに過ごし、飢え渇き、
しばしば食べ物もなく、寒さの中に裸でいたこともありました。
(第二コリント11:26~27)

これはパウロが経験した苦難のリストです。

まだあります。
むち打ち刑が合計8回、
船が沈んだことが3回、
石打刑で仮死状態にもなりました。

町では迫害、山では盗賊、
心をゆるせば詐欺、
身ぐるみはがされ
裸で夜を過ごしました。

何度も苦難を受けても
パウロは宣教を止めません。
よく耐えられたと思います。

主イエスとの出会い、頂いた愛と赦し、
託された使命の尊さ、信じて変えられた人々の姿、
それらがパウロを支えたのでしょう。

主よ、向かい風に負けない力を与えて下さい。

2022/09/05

人に任せる

あなたはまた、
民全体の中から、
神を恐れる、
力のある人たち、
不正の利を憎む誠実な人たちを見つけ、
千人の長、百人の長、
五十人の長、十人の長として
民の上に立てなさい。
(出エジプト記18:21)

モーセの妻の父親であるイテロは、
イスラエルの民の様子を見て
モーセに意見しました。

民のすべての問題をモーセ一人が対処しているので非効率だ。
十人の長、百人の長、という具合に階層的にリーダーを選び
権限移譲をしなさいとモーセに助言したのです。

小さな問題は十人の長が解決する。
百人の長が対処できないなら千人の長に、
それでもだめならモーセに持って行くのです。

選ばれる指導者は
信仰面で神を恐れる人、
実際に人々を動かせる影響力のある人、
不正を憎み誠実で誘惑に負けない人です。

誰でも一人だけで重荷を背負うと、つぶれます。

あなたは全部ひとりでしていませんか。
分けて任せることができるなら
あなたは真のリーダーです。


2022/09/04

サファイアの輝き

彼らはイスラエルの神を見た。
御足の下にはサファイアの敷石のようなものがあり、
透き通っていて大空そのもののようであった。
(出エジプト記24:10)

サファイアは青く透き通った宝石のことです。

主はモーセに命じて
モーセやアロンだけでなく、
イスラエルの長老70人を
シナイ山に連れて来るように言われました。

神を肉眼で見ることは人間には不可能ですが、
神の臨在を間近に感じることはできます。

モーセと長老たちは、いけにえをささげ、
創造主のそば近くでその一部を食しました。

その時の光景が今日の箇所です。

神がどんなお姿かを表現する事はできません。
代わりに、御足の下のサファイアのような輝きを描写し
壮大で美しい神を間接的に表しています。

神は偉大な方であり、美をまとった方でありながら
私たちとの会食を喜んで下さる方です。

神は愛ときよさと美しさに満ちた方です。

2022/09/03

生きることはキリスト

私にとって
生きることはキリスト、
死ぬことは益です。
(ピリピ1:21)

キリストが私を罪から救って下さった。
キリストから本当の命を頂いた。
新しい生きがいをキリストからもらった。
キリストの素晴らしさをあらわす事が人生の目的になった。

パウロは復活の主イエスに出会って
人生が180度変えられました。

だから、パウロの生涯を貫く姿勢は
今日の言葉に言い尽くされています。

キリストのために生きて来た。
キリストが望まれるなら、
たとえ死んでも悔いはない。
キリストと共なる死は益となる。

キリストは死の向こうまで
共にいて下さる。

生も死も良し。そう見通せたなら生きる力が湧いてきます
さあ、キリストのために今日も生きるぞー!

2022/09/02

お仕着せでなく

サウルはダビデに自分のよろいかぶとを着けさせた。
頭に青銅のかぶとをかぶらせて、
それから身に
よろいを着けさせたのである。
(第一サムエル17:38)

少年ダビデが巨人ゴリアテと戦うことを
サウル王は許可しました。
そして、高価で頑丈な自分のよろいとかぶとを
ダビデに貸し与えました。

良かれと思ったのでしょうが
ダビデには大きくて重すぎました。
まともに歩けないので、ダビデは
サウル王にすべて返却しました。

誰かに何かを貸し与えたり
アドバイスをする時に、
相手を無視した
自分ファーストは相手に迷惑になります。

誰かを支配していないか、
自分より若い人に自由を与えているか、
それらをきちんと自己点検しましょう。

ダビデが使いやすい武器は
いつも使っていた石投げと
なめらかな小石でした。
それで勝利できたのです。

あなたの石投げとなめらかな石とは何でしょう。

2022/09/01

私が呼ぶとき

私が呼ぶとき、答えてください。
私の義なる神。
追いつめられたとき
あなたは私を解き放ってくださいました。
私をあわれみ
私の祈りを聞いてください。
(詩篇4:1)

人生で私たちは、たびたび
追いつめられます。

お金や人間関係や仕事や病気で
万事休すと感じることがあります。

そんな時は、
ただ、主に助けを求めましょう。
私が呼ぶ時に答えて下さいと祈りましょう。

神は義なる神です。

もうだめだとあきらめる私たちを
励まし続ける方です。
弱い私たちをあわれんで下さる方です。

実は、追いつめられていないと教えて下さる方です。