舌をもって中傷せず
友人に悪を行わず、
隣人へのそしりを口にしない人。
(詩篇15:3)
悪口が三度の飯より好きという人が
クリスチャンになり、
こう言いました。
あんなに好きだった悪口が
言えなくなった。不思議だ。
あるクリスチャンは
職場の人に言われました。
あなたは悪口を言わないね。
クリスチャンだと知って納得したよ。
公害よりも気を付けたい゙口害゙が
中傷、陰口、悪口、噂話です。
聖霊が住んでおられる
私たちの体からは
これらのものは出てこないはずです。
「あの名によって教えてはならないと
厳しく命じておいたではないか。
それなのに、何ということだ。
おまえたちはエルサレム中に
自分たちの教えを広めてしまった。
そして、あの人の血の責任を
われわれに負わせようとしている。」
(使徒5:28)
ペテロなど使徒たちは
エルサレム当局によって何度も逮捕され、鞭打たれ、
牢獄に入れられましたが、
伝道や礼拝や交わりを止めませんでした。
今回の逮捕に伴う最高法院での尋問で、
大祭司はかんかんに怒っていました。
教えるな、伝えるなと命じたのに、
主イエスの福音はエルサレム中に広がってしまった。
敵対者の口によって
エルサレムにおける福音宣教の広がりが
明らかになりました。
あま市全体に福音が広がりますように。
近隣の人々がイエスは主ですと告白できますように。
私たちをあかし人として用いて下さい。
そのサマリヤの女は言った。
「あなたはユダヤ人なのに、
どうしてサマリヤの女の私に、
飲み水をお求めになるのですか。」
ユダヤ人はサマリヤ人と
付き合いをしなかったのである。
(ヨハネ4:9)
主イエスは、その女性に
水を飲ませて下さいとお願いしました。
それを聞いた女性は本当に驚きました。
ユダヤ人はサマリヤ人を見下げていたので
イエスさまの態度が新鮮に映りました。
いかにも自然な差別のない口調にびっくりしたのです。
本来、差別には合理的根拠はありません。
感情的な嫌悪感が植え付けられて来ただけです。
主イエスは差別と無縁でした。
主イエスの広い心と愛が
サマリヤの女の固く閉じていた心を開き、
救いへと導いたのです。
私の心よ、広く開け!
「見よ、わたしはわたしの使いを遣わす。
彼は、わたしの前に道を備える。
あなたがたが尋ね求めている主が、
突然、その神殿に来る。
あなたがたが望んでいる契約の使者が、
見よ、彼が来る。
──万軍の主が言われる。」
(マラキ3:1)
旧約聖書最後の書、マラキ書に、
救い主のために道を整える人が来ると
預言されていました。
福音書を読むと、
バプテスマのヨハネが
その人だと分かります。
きれいにペンキを塗るには
下地作りが大切です。
おいしい野菜を作るためには
土作りが重要です。
誰かがイエスさまを受け入れるために、
私たちができる道備えがあります。
祈る、そばにいて励ます、みことばを教える、礼拝に誘う、など。
私たちも誰かに遣わされているバプテスマのヨハネです。
そこで、
ファラオは家臣たちに言った。
「神の霊が宿っている
このような人が、ほかに見つかるだろうか。」
(創世記41:38)
ヨセフは、エジプト王の夢を聞いて
解き明かし、対策を提案しました。
今後豊作が7年間続くが
その後に飢饉に見舞われるので
倉庫を作って備蓄すべきだと。
王も家臣たちも
ヨセフの意見に感心し、
ファラオはヨセフに実務を任せました。
ファラオはヨセフを見て
知恵のある人物だとすぐに分かりましたが、
それだけでなく、豊かな品性、信頼性、きよさ、
謙虚さを兼ね備えていたので驚いたのです。
それで「神の霊が宿っている」と言ったのです。
かつて兄たちを怒らせるほど
ヨセフが自己中心だったとは信じられません。
私の内に宿っておられる主よ、
内側から私を変えて下さい。
それからイエスは、
弟子たちをベタニアの近くまで連れて行き、
手を上げて祝福された。
そして、祝福しながら
彼らから離れて行き、
天に上げられた。
(ルカ24:50~51)
主イエスは復活された後、
弟子たちと共に過ごして
最後にオリーブ山に出かけ
そこで別れました。
主イエスさまが天に昇っていかれる時の
手に注目して下さい。
「手を上げて」と書いてあります。
「祝福しながら」とあります。
弟子たちの目に焼き付いたのは、
手を振って別れを惜しむ姿でなく、
手を上げて祝福を祈り続けるイエスさまでした。
今も、主イエスは
私たちに祝福を注いでおられます。
私たちも誰かに祝福を届ける人になりたいですね。
二人は一人よりまさっている。
二人の労苦には、良い報いがあるからだ。
どちらかが倒れるときには、
一人がその仲間を起こす。
倒れても起こしてくれる者のいない
ひとりぼっちの人はかわいそうだ。
(伝道者の書4:9~10)
例えば、夫婦関係が冷たくなったり、
粗探ししたり、軽蔑するようになると、
残念な結果になります。
その反対に、どちらかが弱った時に
助け合える関係、
病気になったり、意気消沈したりした時に
支え合う二人は素晴らしいですね。
夫婦がもっと仲良く
友達同士がもっと自然に
互いを支え合えると良いですね。
夫婦が仲良く生きるためには
与えたり助けられたりの
相互関係維持が大事なので、
ありがとう、ごめんなさい、
そして、大好きだよ、を忘れずに。
ガド族とルベン族はモーセに答えた。
「しもべどもは、
あなたが命じられたとおりにします。
私たちの子供や妻たち、
家畜とすべての動物は
あそこ、ギルアデの町々に留まります。
しかし、しもべども、戦いのために武装した者はみな、
あなたがおっしゃるとおり、
渡って行って、主の前で戦います。」
(民数記32:25~27)
ガド族とルベン族は
ヨルダン川東岸に最適な相続地を見つけて
その土地を下さいとモーセに願いました。
ガド族とルベン族の男性たちは、
妻と子供と家畜をその地に残し、
他の10部族が相続地を得るまで
共に戦いますと約束しました。
イスラエル全体のために
献身すると誓ったのです。
自分のためだけ
という価値観で生きていると
行き詰まります。
共同体のため、
祖国のため、世界のため、
神の栄光のためにできることあります。
私が娘に、
「どうか、あなたの水がめを傾けて、
私に飲ませてください」と言い、
その娘が、
「お飲みください。
あなたのらくだにも水を飲ませましょう」と 言ったなら、
その娘こそ、
あなたが、あなたのしもべイサクのために
定めておられた人です。
このことで、
あなたが主人に恵みを施されたことを
私が知ることができますように。」
(創世記24:14)
アブラハムのしもべは、
主人の息子イサクのお嫁さんを探して
ナホルの町にやって来ました。
彼は、幼い頃からイサクを良く知っていました。
イサクの嫁にふさわしい人物像を
旅の間に祈りながら絞り込んできたのでしょう。
水を飲ませて下さいと井戸のそばで願った時、
見知らぬ人にも飲ませてくれる優しい女性であり、
かつ、ラクダにも水も必要だと察して
行動できる人がふさわしいと考えました。
祈りの中で条件を絞ることは
意味あるプロセスです。
その条件にぴったり当てはまったのが
リベカでした。
あなたの将来を漠然と祈っていますか。
焦点の定まった祈りをしてみませんか。
だからこそ、あなたがたはあらゆる熱意を傾けて、
信仰には徳を、徳には知識を、
知識には自制を、自制には忍耐を
忍耐には敬虔を、敬虔には兄弟愛を、
兄弟愛には愛を加えなさい。
これらがあなたがたに備わり、
ますます豊かになるなら、
私たちの主イエス・キリストを知る点で、
あなたがたが役に立たない者とか
実を結ばないものになることはありません。
(第二ペテロ1:5~8)
私たちは日々
キリストの姿に似た者とされています。
聖霊のみわざにより、
知識が深まり、
忍耐強い性格になり、
身近な人を愛す人に変えられています。
御霊の助けを頂きながら、私たち自身も
霊的成長を意識し、今日の聖句のように、
内なる人が整えられることを祈り求めています。
目指しましょう、
イエスさまのために役立つ者、
実を結んで神の栄光を表す者になる事を。
今日の聖句のどの徳目に
あなたは心を惹かれましたか。
青年は言った。
「驚くことはありません。
あなたがたは、
十字架につけられたナザレ人イエスを
捜しているのでしょう。
あの方はよみがえられました。
ここにはおられません。
ご覧なさい。
ここがあの方の納められていた場所です。」
(マルコ16:6)
墓に着いた女性達はびっくりしました。
入り口の大きな石が取り除けられ、
御使いがそこにいたからです。
その御使いは言いました。
①主イエスはよみがえられた。
②主イエスはこの墓にいない。
③中を良く見て確認しなさい。
私たちは主イエスの墓参りはしません。
なぜなら、主イエスは墓から出て来られたからです。
死は終わりではありません。
主イエスが永遠の命の道を開かれたのです。
ハッピー・イースター!
今日はイースター。喜びと希望の日です。
主は、よみがえられました。
主は今日も生きておられます。
ハレルヤ。
彼女たちは、
「だれが墓の入り口から
石を転がしてくれるでしょうか」
と話し合っていた。
(マルコ16:3)
主イエスは金曜日に十字架にかけられました。
土曜日は安息日だったので弟子達は何もできず、
悲しみに暮れ、呆然としていたはずです。
女性たちは泣きながらも計画を立てていました。
安息日が終わったら、
イエスさまの遺体に香油を塗って
丁重に埋葬する予定でした。
男性の弟子たちは、
もう終わってる、行っても無駄だと
女性達の行動を否定したことでしょう。
日曜日、女性達は、主イエスの埋葬場所に出かけました。
でも、あの重い石を転がしてくれる人がいるかどうかは
何のプランも持っていません。
私は、この女性たちの無計画さが好きです。
主イエスのために何かしたいと気持ちが先に動き出す。
きっと誰かが助けてくれる、
何とかなるでしょうという信仰的積極性。
この女性達の行動が
イースターの喜びを開く入口になりました。
さて、過越の祭りの前のこと、
イエスは、この世を去って父のみもとに行く、
ご自分の時が来たことを知っておられた。
そして、
世にいるご自分の者たちを愛してきたイエスは、
彼らを最後まで愛された。
(ヨハネ13:1)
この食事が最後の晩餐になると、
主イエスはよく承知しておられました。
主イエスは十二弟子を愛してこられましたが、
その愛を結晶化するかのように
一言一言をかみしめ、
一つ一つの行動を心を込めてなさいました。
十字架の死後、弟子たちは、
この食事の席での主イエスの言葉と行動を
あざやかに思い出しました。
あの時、主イエスが言われたことは
そういう意味があったのか。
後になってやっと悟ることができました。
弟子たち皆は、同じことを心で思っていました。
<私はイエスさまに一番愛された>と。
あなたも、
主イエスに特別に愛されています。
もし
誇る必要があるなら、
私は自分の弱さのことを誇ります。
(第二コリント11:30)
けれどもパウロは、
私は弱い、と言いました。
誇れるものがあるとしたら
弱さしかないと胸の内を語りました。
ダマスコから脱出した時は、
籠に入れられ城壁伝いに降ろしてもらいましたが、
パウロはその時の心細さをずっと覚えていました。
「私は弱い」
そう声に出して言ってみませんか。
なぜか心が落ち着きます。
だって、みんな、本当は弱いのです。
でも、それだけで終わりません。
私たちは知っています。
主が、私たちの弱さの中に
神の強さを現わして下さることを。
だから、ハレルヤです。
弱いから、強いのです。
私たちはみな、
多くの点で過ちを犯すからです。
もし、ことばで過ちを犯さない人がいたら、
からだ全体も制御できる完全な人です。
(ヤコブ3:2)
あなたは、どちらのタイプですか。
言えなかったので、ストレスを抱える人。
はっきり言ってしまって、後悔する人。
ヤコブは言います、
言葉で失敗しない人はいない、と。
だから言葉の使い方においては
注意を払うべきだというのです。
口は体の中では小さな部分ですが
その人の印象を決めるのは
口から出る言葉です。
主よ、今日、私の口をきよめて下さい。
賛美と感謝の言葉が出ますように。
皮肉や愚痴ではなく、
積極的な言葉、そして、人をほめる言葉を言えますように。
ところが強風を見て怖くなり、
沈みかけたので、
「主よ、助けてください」と叫んだ。
イエスはすぐに手を伸ばし、
彼をつかんで言われた。
「信仰の薄い者よ。なぜ疑ったのか。」
そして二人が舟に乗り込むと、風はやんだ。
(マタイ14:30~32)
主イエスを信頼していた時は
水の上を歩けたのです。
主イエスは「信仰の薄い者よ」とペテロを叱りました。
私たちも、ある意味で、水の上を歩いて来たと言えます。
主イエスに必死にしがみつき
無我夢中で困難を乗り越えて来ました。
ちょっと一息ついたり、
人間的観点で将来を予測したり
人と比べたりすると、
とたんに沈み始めます。
疑わずに主イエスを信頼して歩き続ける。
その原点に立ち戻りましょう。
わたしは愛する者をみな、
叱ったり懲らしめたりする。
だから熱心になって悔い改めなさい。
見よ。わたしは戸の外に立ってたたいている。
だれでも、
わたしの声を聞いて戸を開けるなら、
わたしもその人のところに入って
彼とともに食事をし、
彼もわたしとともに食事をする。
(黙示録3:19~20)
この箇所は、イエスさまを信じる場面で
よく開かれる箇所なので親しみがあると思います。
あなたも罪を悔い改め
イエスさまを心の中に迎え入れましたね。
この聖句は
ラオディキアの教会への主イエスの言葉の一部で、
悔い改めを勧めている箇所です。
愛しているから叱責していると
主イエスは言われます。
自分の問題点に気づいたら、ためらわず、
ドアを開けてイエスさまをお迎えしましょう。
悔い改めができて、赦しを確信できたら
今まで以上にイエスさまを近くに感じ、
楽しい食事の時間になります。
二つのことをあなたにお願いします。
私が死なないうちに、それをかなえてください。
むなしいことと偽りのことばを、
私から遠ざけてください。
貧しさも富も私に与えず、
ただ、私に定められた分の食物で、
私を養ってください。
私が満腹してあなたを否み、
「主とはだれだ」と言わないように。
また、私が貧しくなって盗みをし、
私の神の御名を汚すことのないように。
(箴言30:9)
贅沢が幸せだ。
もっと買いなさい、たくさん持ちなさいと
迫って来るのが現代社会です。
今日の箴言は、それとは逆の
清貧の祈りともいえる内容です。
でも、貧し過ぎると
神さまに背を向けてしまうので
神の良しとされる生活レベルで
歩みたいと願っています。
謙虚な心、
与えられたもので足りる心を持ち、
小さな事を感謝する日々を過ごし
偽りや虚栄に陥らない穏やかな生活。
そんな心で生きていたいです。
何事でも神のみこころにしたがって願うなら、
神は聞いてくださるということ、
これこそ神に対して私たちが抱いている確信です。
(第一ヨハネ5:14)
真っ青な空を背景に
マッターホルンを見上げたような心境になります。
(スイスに行ったことはありませんが)
何という強い確信と信頼でしょう。
主イエスが昇天されてから長い年月が過ぎて
ヨハネはこの手紙を書きましたが、
彼は揺るがない確信を持って言いました。
これは第一に、ヨハネの体験に基づく真理なのです。
第二に、ヨハネが主イエスから直接聞いた約束なのです。
(ヨハネ16:24)
私たちも、きちんと願いましょう。
祈りの中ではっきりと求めましょう。
神は聞いてくださいます。
なんと幸いなことでしょう。
その力があなたにあり、
心の中に、シオンへの大路のある人は。
彼らは涙の谷を過ぎるときも
そこを泉の湧くところとします。
初めの雨も、そこを大いなる祝福でおおいます。
彼らは力から力へと進み
シオンで神の御前に現れます。
(詩篇84:5~7)
私たちは、涙の谷を経験することがあります。
大切な人を失う。
願いがかなわない。
状況が改善せず、悪化する。
出口が見えず、希望が持てない。
ところが、涙の谷を通過している時に
知らず知らずのうちに
主から何かを頂くことがあります。
たとえ涙の谷にいても、
心の中にシオンへの道を持っている人は
尽きない泉を持っているのです。
神は、
私たちが行なった義のわざによってではなく、
ご自分のあわれみによって、
聖霊による再生と刷新の洗いをもって、
私たちを救ってくださいました。
(テトス3:5)
私たちが救われたのは
良い行いをしたからではありません。
神の深いあわれみのゆえに救われたのです。
その時、
聖霊が直接私たちに触れて下さいました。
一度も取り外したことのない換気扇の羽を
イメージして下さい。洗う人は一苦労です。
罪に汚れきった私たちを
聖霊が洗って下さいました。
まるで新品のように
新しい心にしてくれました。
聖霊はそれからもずっと離れず、今も
私たちを、きよく、さらにきよくして下さっています。
さて、イエスは朝早く、
まだ暗いうちに起きて
寂しいところに出かけて行き、
そこで祈っておられた。
(マルコ1:35)
ガリラヤ伝道の初期、主イエスは大忙しでした。
朝早くから日没まで、
病人たちの列は途切れません。
食事する時間もないのです。
主イエスも自分を取り戻す時間が必要でした。
それでイエスさまはまだ暗い朝、寂しい場所で
父なる神と心を通わせる祈りをしておられました。
私たちにも、静かに祈れる時と場所が必要です。
主の前に出て、
本音で私たちの父に語りかけ
主からの語り掛けに心の耳を傾けましょう。
父なる神との密度の濃い祈りの時があったからこそ
主イエスは大きな働きをすることができました。
ダビデはミカルに言った。
「あなたの父よりも、その全家よりも、
むしろ私を選んで、
主の民イスラエルの君主に任じられた主の前だ。
私はその主の前で喜び踊るのだ。」
(第二サムエル記6:21)
神の箱を都にお迎えした時、
ダビデの喜びは最高潮に達しました。
嬉しくてしょうがない。
ダビデは力の限り踊りました。
ダビデの妻ミカルはそれを冷ややかにながめて
後で彼に皮肉を言いました。
ダビデはそれを聞いて、今日の言葉を述べたのです。
主はこんな私を選んで王として下さった。
「選び」に感激したのはパウロだけではないのです。
主のみこころ、主から受けた愛、
主の励ましを思うと胸が震えてきたのです。
じっとしていられない、
体が自然に動き出し、ダンスになったのです。
人目を気にした賛美など意味がないのです。
ダビデは主だけを見ていました。
私たちも
選ばれた喜びを言葉に表し
体を動かして賛美しましょう。
私たちは四方八方から苦しめられますが、
窮することはありません。
途方に暮れますが、
行き詰まることはありません。
迫害されますが、
見捨てられることはありません。
倒されますが、滅びません。
(第二コリント4:8~9)
現実は、超きびしーい!
こっちもダメ、あっちもダメ、
考え得る回避策が全部使えないと分かったとき
私たちは落ち込んだり、パニックになります。
何かの攻撃を受け、
肉体的、精神的、経済的にダメージを受けると
倒れ込み、外出すらできなくなります。
パウロは土壇場に極めて強い人です。
ひどい目にあっても
終わりじゃないとみんなを励ましています。
我々はイエスさまと一緒に死んだ。
復活のイエスさまの命が私たちの中に生きている。
だから、大丈夫だというのです。
四方八方がふさがれても
天は大きく開いています。
倒されたら天を見上げて
イエスさまの御顔を仰ぎ見よう。
さあ、立とう。きっと立てる。
まだ終わりじゃない。
道はある。必ずある。