2023/09/30

してはならない

殺してはならない。
姦淫してはならない。
盗んではならない。
(出エジプト記20:13~15)

これは十戒の言葉です。明白な罪です。

この三つに共通するのは
だれかを傷つけ、苦しめる破壊的な行為だという点です。

殺人は、人を最高度に傷つけ命を奪う罪で、つぐなうことは不可能です。
姦淫は、配偶者の心を回復不可能なほどに切り裂きます。
盗みは、価値、思い出、努力、そして未来を奪うほどの損害を与えます。

被害に遭えばどんなに酷い罪かが分かるのに、
自分が罪を犯す場合は
合理化して自分を甘やかし、
目先の利益に惑わされてやってしまいます。

罪の誘惑が来た時、ブレーキを踏める人間になりましょう。
これらの三つをしないだけで
世界は平和で穏やかな場所になります。



2023/09/29

その水を

彼女はイエスに言った。
「主よ。私が渇くことのないように、
ここに汲みに来なくてもよいように、
その水を私に下さい。」
(ヨハネ4:15)

サマリヤの女は井戸の水を汲みに来ていました。

水が貴重な土地柄ですから、
自宅の敷地に井戸があれば楽だと
誰もが考えるところです。

主イエスはその井戸で女に声をかけ、
わたしが与える水を飲むなら渇かないと言われました。

それを聞いて女は心を開いて言いました。
「その水を私にください」

現代にも、そう考えている人がたくさんいるはずです。

水は生活必需品です。
そしてもっと価値のある水が存在します。
主イエスが差し出す水で、渇くことのない水です。

人生を一変させ、心を満たし続ける水。
キリストが提供するこの水を
多くの人にシェアしましょう。

2023/09/28

末っ子

サムエルはエッサイに言った。
「子どもたちはこれで全部ですか。」エッサイは言った。
「まだ末の子が残っています。今、羊の番をしています。」
サムエルはエッサイに言った。
「人を遣わして、連れて来なさい。
その子が来るまで、私たちはここを離れないから。」
(第一サムエル16:11)

主は祭司サムエルに言われました。
サウル王は失脚した、
新しい王を見つけたので油を注ぎなさいと。

サムエルはエッサイの家に出向いて
彼の息子たちと対面しました。
いずれも優れた人物に見えましたが、
主は違うと言われました。

七人の息子以外にもう一人、
羊飼いの下働きをさせていた
末っ子のダビデが残っていましたが、
父親は彼を一人前とは認めていませんでした。

サムエルは、その末っ子に期待し、
年齢ではなく主の選びを信じました。

主のみこころに従う。
祭司サムエルの優れた姿勢がここに見られます。


2023/09/27

主のために生きる

私たちの中でだれ一人、
自分のために生きている人はなく、
自分のために死ぬ人もいないからです。
私たちは、生きるとすれば主のために生き、
死ぬとすれば主のために死にます。
ですから、生きるにしても、死ぬにしても、
私たちは主のものです。
(ローマ14:7~8)

生きることはキリスト、
死ぬことは益です、とパウロは
ピリピ人への手紙でも書いています。
これはパウロにとっての常識だったのです。

誰にとってもこの生き方は当たり前で、
みんな賛成のはずだとパウロが言うのです。
私たちは置いてきぼりにされた感じがします。

みんな自分のために生きていないのだ。
主のために生き、主のために死ぬのだと
パウロはさらっと言いました。

私たちがあたふたしていると、
パウロはこう言うでしょう。
あなたは自分のものじゃない、主のものだ。
忘れていましたか?

ダビデも言いました。
「私たちは主のもの」(詩篇100篇)

私たちは自分のために生きていません。
主のために生き、主のために死ぬのです。

2023/09/26

この子をおゆだねします

「この子のことを、私は祈ったのです。
主は私がお願いしたとおり、
私の願いをかなえてくださいました。
それで私もまた、この子を主におゆだねいたします。
この子は一生涯、主にゆだねられたものです。」
こうして彼らはそこで主を礼拝した。
(第一サムエル1:27~28)

かつてハンナは命を注ぐように激しく
息子を与えてくださいと主に嘆願しました。

主はその祈りに答えて下さいました。
子供の誕生は彼女の大きな喜びとなりました。

ハンナは手塩をかけてサムエルを育て、
親元から離せる年齢になると
祭司エリに託しました。

ハンナは息子が与えられると手放しました。
アブラハムと重なる信仰姿勢が見られます。

ハンナの一連の行動は
私たちの人生の縮図でもあります。

今、私たちが手にしているものは
すべて主から頂いたものです。
それを主にささげ、主に用いて頂き、
主の栄光のお役に立つなら幸いです。


2023/09/25

その時、私は

「ああ、主よ。
どうかこのしもべの祈りと、
喜んであなたの名を恐れる
あなたのしもべたちの祈りに耳を傾けてください。
どうか今日、このしもべに幸いを見させ、
この人の前で、
あわれみをうけさせてくださいますように。」
そのとき、私は王の献酌官であった。
(ネヘミヤ1:11)

ネヘミヤはバビロンに住み、
アルタクセルクセス王の側近として
普段は仕事をしていました。

そこに彼の兄弟がやって来て
エルサレムの惨状を詳しく知らせたのです。

あまりの悲惨さに
ネヘミヤは泣き、断食し、悔い改め、祈りました。

涙が枯れるほど祈り続けた後に、
一つの事実が鮮やかに浮かび上がってきました。

「そのとき、私は王の献酌官であった」

私の立場なら、王の許可をもらって、
エルサレム再建ができる。

あなたが今そこにいる意味が
鮮烈に分かる時が来ます。


2023/09/24

アブラハムは

アブラハムは、すでにその年を過ぎた身であり、
サラ自身も不妊の女であったのに、信仰によって、
子をもうける力を得ました。
彼が、約束してくださった方を真実な方と考えたからです。
(へブル11:11)

願い求めてきたことが、かなわない。
そんな時私たちは、
徐々に希望を無くしていきます。

打ち寄せる波が
少しずつ岩を侵食するのに似て、
不信仰の波は私たちを弱らせていきます。

アブラハムの生涯は
人間的に言うなら夕暮れ時を迎えていました。
年老いて、様々な面で衰えが出ていました。
子どもはもう無理だと諦めかけていました。

けれども、神の約束は残っていました。

それが支えとなり、星空が励ましとなり、
アブラハムは約束を信じ続けることができました。
神は真実な方と信頼したのです。

そしてイサクが生まれました。

今も主の約束が固く立っています。


2023/09/23

主を捨てて

イスラエルの子らは再び、
主の目に悪であることを行い、
もろもろのバアルやアシュタロテ、
アラムの神々、シドンの神々、
モアブの神々、アンモン人の神々、
ペリシテ人の神々に仕えた。
こうして彼らは主を捨て、
主に仕えなかった。
(士師記10:6)

信仰深い指導者が死んでしまうと
人々はまことの神を捨てました。
士師記の時代ではそれが何度も繰り返されます。

神々の名前のオンパレードですが、
神の名が複数あるということは
一つの神だけでは完結できず、
どの神々も役に立たないということです。

日本では「八百万の神」と言いますが、
専門分野に細分化された神は
神と呼ぶには無理があります。

イスラエルの民は、
こうした神々を求め続ける
不毛なスパイラルに陥りました。
そこから脱出するには
まことの神を信頼する指導者を
待つしかありません。

ヨシュアのようにスパッと言いたいですね。
我が家と我は主に仕えると。

2023/09/22

異なる道

わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、
あなたがたの道は、わたしの道と異なるからだ。
──
主のことば──
(イザヤ55:8)

昔は自動車地図がないと観光地などに行けませんでした。
今は、携帯やカーナビがあるので安心です。
衛星から見れば最短ルートなのでしょうが、
時折、悪路を走らされることもあります。

私たちの人生においては
自分が願う道を選んで進みます。

けれども主のお考えになる道が
私たちの道と異なる場面に出会います。

主の道は高い道で
主の思いは私たちより深いのです。

その事が納得できるのは大分後のことになります。

人生のインターチェンジに差し掛かったら
主の声を注意深く聞きながら、
主の道を受け入れ、主の道に進みたいですね。

2023/09/21

評判の良い人

そこで、兄弟たち。
あなたがたの中から、
御霊と知恵に満ちた、
評判の良い人たちを七人選びなさい。
その人たちにこの務めを
任せることにして‥‥
(使徒6:4)

エルサレム教会が急激にふくれあがり、
へブル語を話す信者とギリシア語を話す信者の間で
意思疎通が難しくなり、やもめ達への食料配給が滞り、
使徒たちだけでの管理はできなくなりました。

そこで、7人の役員を選び、
それらの仕事を任せることにしました。

その際、選定基準がありました。
「御霊と知恵に満ちた人」で
「評判の良い人」です。

主イエスを愛し、霊性が豊かで、祈り深く、柔和で温かい人、
バランスのとれた判断ができ、安定した評価を受け、
実生活で人を助けて来た実績のある人です。

霊的で実際的。
この二つの要素を兼ね備えた人は
そんなに多くはいません。

けれども御霊は、
そのような人を育てて下さいます。
あなたもその一人です。



2023/09/20

主の祝福が職場に

主人が彼にその家と全財産を管理させたときから、
主はヨセフのゆえに、このエジプト人の家を祝福された。
それで、主の祝福が、家や野にある全財産の上にあった。
(創世記39:5)

奴隷に売られたヨセフは
エジプト人ポティファルの家で働くことになりました。

自分の境遇をのろって捨て鉢な人生も選べましたが、
ヨセフは目の前の仕事を誠実にこなすことにしました。

言語を学び、仕事を身に着け、
効率良く働き、周囲の人との調和を尊びました。

やがて主人はヨセフに家の管理を全部任せました。
それほどヨセフは有能で信頼される人物になりました。

主がヨセフと共におられたからです。

あなた働く職場にも同じことが起きます。
あなたがそこにいるゆえに、
あなたの会社や家庭に主の祝福が注がれます。

祈りましょう。
職場のために。社長や社員のため。仕事の祝福のために。

2023/09/19

慰めの神

私たちの主イエス・キリストの父である神、
あわれみ深い父、
あらゆる慰めの神がほめたたえられますように。
(第二コリント1:3)

イエスさまがいつも
祈りの中で親しく言葉を交わされていた御父が
私たちの神でもあります。
とても光栄なことです。

父親というものは、
保護、愛情、模範、訓練を与えてくれるものですが、
人間の世界に完璧な父親は存在しません。
けれども、まことの神は
全面的に信頼できるお方で
あわれみ深い父です。

そして、私たちの神とは、
「あらゆる慰めの神です」

神が慰めてくれる。
そのニュースを初めて知った人は
深い喜びを感じることでしょう。

年上の信頼できる人が、目に涙を浮かべながら
あなたの身の上話を黙って聞いてくれた時などは
それだけで慰めが伝わってきます。

私たちがどんな苦しみや悲しみを経験したとしても
慰めがあるのです。

あらゆる慰めの神がほめたたえられますように。


2023/09/18

神の奇跡

主は御使いを遣わして、
アッシリアの王の陣営にいたすべての戦士、
指揮官、隊長を全滅させた。
アッシリアの王は恥じて国へ帰り、
自分の神の宮に入った。
そのとき、自分の身から生まれた者たちが、
そこで彼を剣にかけて倒した。
(第二歴代誌32:21)

エルサレムは敵の大軍に包囲され
ヒゼキヤ王は絶体絶命となっていました。

預言者イザヤとヒゼキヤ王と人々は
主に助けを求めて祈りました。

その結果、主の御使いがアッシリア兵を打ち、
敵はほぼ全滅しました。全能の神による奇跡です。
自国に逃げ帰ったアッシリア王は
息子らによって暗殺されました。

敵が来た。包囲した。滅んだ。
聖書は史実を淡々と書いています。

どんな境遇に陥ったとしても祈れます。
包囲されても無限の天が開けています。
あきらめるのは明日に伸ばせば良いのです。
思いもかけない解決があるのです。



2023/09/17

神殿の幕

しかし
イエスは再び大声で叫んで
霊を渡された。
すると見よ、
神殿の幕が上から下まで
真っ二つに裂けた。
(マタイ27:50~51)

神殿は聖所と至聖所に区切られていました。
幕がその仕切りになっていました。

大祭司だけが、一年に一度、
贖いのために至聖所に入れました。

主イエスが十字架で亡くなった直後、
その幕が上から下まで裂けました。

真の大祭司イエスさまが
ご自分の血を注ぎ
至聖所に入って贖いを成し遂げられたのです。

神と人との間を阻んでいたものが取り去られました。
主イエスが十字架で命をささげて下さったので
私たちは神に近づけるようになったのです。

3つの福音書がこの出来事を記録しています。
神の御手のわざが明瞭にあらわれたと
マタイもマルコもルカも感じているのです。

神と人とを隔てるものは何もありません。

2023/09/16

もてなし

聖徒たちの必要をともに満たし、
務めて人をもてなしなさい。
(ローマ12:13)

ローマ人への手紙は12章以降
救われた者にふさわしい生活スタイルを
箇条書きにしていますが、
今日の聖句もその一つです。

救われたクリスチャン同士ですから
仲間が困っていたら助けるのは当然です。
精神面でも、経済面でも支える事ができます。

誰かをもてなす事も兄弟愛の一つです。
食事やお茶を提供しましょう。
場合によっては泊まって頂くこともできます。

外国の人にもてなされて感じることは、
贅沢品とか料理の皿が多いわけではなく、
あるものを出して下さる感じです。
その場にその人がちゃんと居て、
私たちの存在を喜んでくれて
温かく迎えてくれることが伝わってきます。

あなたは、おもてなしが好きですか。

2023/09/15

神は、実に

神は、実に、
そのひとり子をお与えになったほどに
世を愛された。
それは御子を信じる者が、
一人として滅びることなく、
永遠のいのちを持つためである。
(ヨハネ3:16)

聖書の中心主題と言うべき重要な聖句です。
ですから私が最初に聖句暗記した言葉でもあります。

第一に、神は私たちを愛して下さいました。
「世を愛された」と書いてあります。
世という言葉にあなたの名を入れることができます。

第二に、ひとり子イエスさまをお与え下さった中に
神の愛の深さが表れています。
「実に」という言葉は神の愛と犠牲の大きさに対する
驚きと感動が表されています。

第三に、主イエスを信じるだけで
罪が赦され、永遠の命が保証されます。
滅びから救い出されるのです。

あなたも私も神に愛されています。
感謝と賛美をささげましょう。



2023/09/14

まどろむことなく

見よ、
イスラエルを守る方は
まどろむこともなく、
眠ることもない。
(詩編121:4)

小さな子供が高熱を出した夜、
親はそばについて
ほとんど眠らずに看病します。

特に、最初の子供の時は
親も経験がないので心配で、
長い夜を祈る心で過ごします。

熱が下がって目を開けて
そばにお母さんがいるのに気づくと
子供は本当に安心するものです。

私たちが苦しむ時、
主は眠ることなく
私たちを守ってくださいます。
嵐の夜も共にいて下さいます。

24時間のセキュリティが確保され、
愛情を込めた主の眼差しが
私たちに注がれています。

2023/09/13

益になることを

イスラエルの聖なる方、
あなたを贖う主はこう言われる。
「わたしはあなたの神、主である。
わたしはあなたに益になることを教え、
あなたの歩むべき道にあなたを導く。」
(イザヤ48:17)

イギリスでルートン空港行きのバスに乗るため
スーツケースを持ってバス停で待っていました。
格安フライトでイスラエルに行く予定だったのです。
いくら待ってもバスが来なくて心配していると、
「バス停は交差点の向こう側に移動したよ」と
見知らぬイギリス人男性が教えてくれました。
そのおかげで飛行機に無事乗れました。

私たちの神は
とても具体的で益になることを教えて下さるお方です。
どの道を進んだら良いか助言を下さる方です。

聖なる神なので、
私たちを神のきよさにあずかる方向に導いて下さいます。
贖い主の神なので、
どんな犠牲を払っても私たちを救い出そうとされます。

私たちの神は
最高の道先案内人です。

2023/09/12

寄留者

寄留者を苦しめてはならない。
虐げてはならない。
あなたがたもエジプトの地で
寄留の民だったからである。
やもめ、みなしごはみな、
苦しめてはならない。
(出エジプト記22:21~22)

寄留者、やもめ、みなしごは貧しく、
社会的に立場の弱い人です。

イスラエルの民は
エジプトにおいて招かれざる難民で、
寄留者として苦しめられた歴史があったので、
目の前の寄留者をいじめるなという教えは納得できたはずです。

けれども、私たち人間は異なる言語や文化の人に接すると
身構えて冷たく接しがちで、
境遇の違う人に共感が働かない場合もあります。

かえって、やもめやみなしごに対して、
自助努力を強いる傾向も見受けられます。

私たちが自分自身のこうした弱さを意識して、
いじわるをしない、虐げない、
と心にメモしておきましょう。

主イエスはナインの町の
やもめに目をとめ
亡くなった息子を生き返らせてあげました。

2023/09/11

塩気

あなたがたは地の塩です。
もし塩が塩気をなくしたら、
何によって塩気をつけるのでしょうか。
もう何の役にも立たず、
外に捨てられ、
人に踏みつけられるだけです。
(マタイ5:13)

クリスチャンは塩です。

イエスさまは、私たちキリスト者が
塩としてこの世に生きることを期待しておられます。

ところで、日本文化では和が尊ばれ、忖度し合い、
人々と違う行動はタブーとされてきました。

キリスト者は塩なので、
時には大勢と違う道を選び、摩擦を作りますが
そこに意義があるのです。

口裏を合わせておきましょう、
みんなで渡れば不正の道も怖くないと言われても、
塩であるキリスト者は正しい別の道を選ぶのです。

塩が塩気をなくしたら存在意義がなくなります。
塩は少量であっても、その塩気によって腐敗を防ぎます。

イエスさまは塩気の多い方でしたが
愛とあわれみに満ちた方でした。
両立可能なのです。

2023/09/10

冒涜か、神か

 イエスは彼らの信仰を見て、
「友よ、あなたの罪は赦された」と言われた。
ところが、律法学者たち、
パリサイ人たちはあれこれ考え始めた。
「神への冒涜を口にするこの人は、
いったい何者だ。
神おひとりのほかに、
だれが罪を赦すことができるだろう。」
(ルカ5:20~21)

主イエスがある家におられたが、
後から人が入れないほど一杯になった。
中風の友達を連れてきた4人は
屋根を破って友を吊りおろし、
主イエスにいやしてもらおうとした。

主は中風の男に、
「友よ、あなたの罪は赦された」と言われた。

それを聞いた律法学者は怒った。
罪を赦せるのは神おひとりだけで、
この発言は冒涜に当たると決めつけた。

主イエスの発言は二通りの解釈しかできない。
冒涜か、本当の神か。

主イエスはご自分が神である証拠を示すため、
中風の男を瞬時に癒された。

主イエスは罪を赦す方、まことの神。
ここに揺るがない真実がある。

2023/09/09

燃えさかる炭

すると、
私のもとにセラフィムのひとりが飛んで来た。
その手には、
祭壇の上から火ばさみで取った、
燃えさかる炭があった。
彼は、私の口にそれを触れさせて言った。
「見よ。
これがあなたの唇に触れたので、
あなたの咎は取り除かれ、
あなたの罪も赦された。」
(イザヤ6:6~7)

幻の中でしょうか、
実際に礼拝していたのでしょうか、
預言者イザヤは神の臨在を肌で感じ、
聖なる、聖なる、聖なるかなという
セラフィムの賛美を聞いていました。

神のきよさに圧倒されて
イザヤは自分の汚れを強く意識しました。

セラフィムが燃えさかる炭をイザヤの口に近づけたので、
ジュッという音と共にひどい火傷を覚悟しましたが、
あなたの罪は赦されたとの宣言を聞きました。

イザヤは熱さと痛みに身構えました。
私たちが罪のきよめを受ける時も
罪意識の痛みを経験し、恥じる心が生じます。
誰かに謝罪したり、社会的制裁を受ける事もあります。

こうした痛みのプロセスの後に、
涙とさわやかさと平安がやってきます。

2023/09/08

いつもの雨を

シオンの子らよ。
あなたがたの神、主にあって、楽しみ喜べ。
主は、義のわざとして、初めの雨を与え、
かつてのように、あなたがたに大雨を降らせ、
初めの雨と後の雨を降らせてくださる。
(ヨエル書2:23)

気候は長年変わらないものですが、
飢饉や大雨などの自然災害が襲う年もあります。

ヨエル書を読むと様々な災害が見受けられ、
いなごが大発生したり、
雨が少なくて困ったようです。

パレスチナは地中海性気候に属し、
秋に雨が降り始め(初めの雨)
春にも雨が降り(後の雨)
夏になると雨が降らなくなります。

穀物の種まきと収穫のために
この雨は不可欠です。

いつものように季節が巡ることは
主の恵みなのだと気づきます。

今日の聖句は、
人々が主に立ち返ると、
いつもの季節と雨が戻るという約束です。

当たり前の日々は当たり前ではないのです。
主の恵みと守りを感謝します。

2023/09/07

私に倣う者

兄弟たち。
私に倣う者となってください。
また、あなたがたと同じように、
私たちを手本として歩んでいる人たちに、
目を留めてください。
(ピリピ3:17)

いいかい、息子よ、
お父さんは後悔ばかりで、
うだつが上がらない毎日が嫌になった。
私のようになってはいけない。

こんな事を言われたら子供は落胆します。
本来、子供はお父さんの真似をしたいのです。

パウロは私を見習いなさいと言えました。
私の真似をしなさい、それだけで良い。
パウロはまさに霊の父親でした。

礼拝を何よりも大事にする。
朝の初めに祈り、聖書を読む。
嘘をつかず、正しく仕事をする。
人を愛し、ごめんなさいを言う。
感謝を見つけ、人をほめ、主イエスを証しする。
家族を思いやり、未来を信じ、希望を見出す。

私たちも言ってみましょう。
私の真似をしたら良いと。



2023/09/06

重くのしかかる

私が黙っていたとき、
私の骨は疲れきり、
私は一日中うめきました。
昼も夜も、
御手が私の上に重くのしかかり
骨の髄さえ、
夏の日照りで乾ききったからです。
(詩編32:3~4)

罪を犯した後は
様々な思いが波のようにやって来ます。
しまったという後悔、責任転嫁、
誰にも言えない孤独、ふがいなさ、
恥、みじめさ、恐れ、逃避願望など。

ダビデは取り返しのつかない罪を犯して
告白できずに苦しんでいました。
その時の苦悩を歌ったのが今日の箇所です。

罪の苦しみと罪を隠す苦しみが
二重になって重くのしかかりました。
水深七千メートルの深海魚にかかるような強烈な重圧です。

黙っているだけで疲れ切る、一日中うめく、
罪意識で押しつぶされそうになる、
骨がきしみ、口が乾ききる。

解消方法はただ一つ、
罪を認めて口に表すことです。

2023/09/05

受け入れられて

そして私の肉体は
あなたがたにとって試練となるものがあったのに、
あなたがたは軽蔑したりせず、
かえって、私を神の御使いのように、
キリスト・イエスであるかのように、
受け入れてくれました。
(ガラテヤ4:14)

パウロは何かの持病を持っていたようです。
その症状がひどくなると
周囲の人がびっくりして、
パウロが軽蔑される事態も起こり得ました。

パウロ自身も今日の聖句の前節で
「私の肉体が弱かった」と書いているほどです。

これはパウロの弱点でした。
真剣に主に何度も嘆願したのに
癒されなかったパウロのとげでした。

信仰の鉄人パウロは多くの人を癒してきたのですが、
こんな弱さを持っていました。
パウロはこの事により優しい人になったでしょう。
ガラテヤの人々への感謝があふれています。

ガラテヤ教会は
弱さを抱えた指導者を受け入れ、サポートしました。

2023/09/04

豊かないのち

盗人が来るのは、盗んだり、殺したり、
滅ぼしたりするためにほかなりません。
わたしが来たのは、
羊たちがいのちを得るため、
それも豊かに得るためです。
(ヨハネ10:10)
 

泥棒は不心得者です。
そっと盗もうとします。
誰かに見つかれば殺してしまいます。
当時、卑劣な羊泥棒がいました。

羊飼いは、一頭一頭見分けられるほど
羊を大切に育てているので泥棒を憎みます。

主イエスは良い羊飼いです。
私たちを手塩にかけて育て、
文字通り命をかけて守ってくださいます。

主イエスは、
私たちが豊かな人生をおくれるように
心を砕いておられます。

ささやかな喜び、試練からの脱出、
大きな勝利、日々の生きがい、愛の通う交流、
永遠のいのち、希望や夢の実現など、
私たちの生活が豊かに感じられるように
主イエスは助けて下さいます。


2023/09/03

厳しさと温かさ

その日、あなたは言う。
「主よ、感謝します。
あなたは私に怒られたのに、
あなたの怒りは去り、
私を慰めて下さったからです。」
(イザヤ12:1)

子育ては難しいです。
過保護は子どもをダメにします。
逆に、行き過ぎた厳しさや冷淡さもいけません。
かといって、放置・放任は親の責任放棄になります。

今日の箇所を見ると、
神は厳しい方だと分かります。
私から離れるなと諭され、
もし背いて主から離れたら災いが来ると
エルサレムの人々に警告されました。
事実、彼らは悲惨な結果を経験しました。

その一方で、
神は愛の方でもあります。
背き離れた人々が回復に導かれ、
慰めを受けたと言うようになります。

良い親は、
適度な厳しさと愛の慰めという
両面を必ず持っています。
私たちの神もそういう方です。

2023/09/02

アンナ、84歳

また、アシェル族のペヌエルの娘で、
アンナという女預言者がいた。
この人は非常に年をとっていた。
処女の時代の後、7年間夫とともに暮らしたが、
やもめとなり、八十四歳になっていた。
彼女は宮を離れず、断食と祈りをもって、
夜も昼も神に仕えていた。
(ルカ2:36~37)

主イエスが生まれて八日が過ぎ、
ヨセフとマリアはエルサレム神殿に上りました。
二人のお年寄りが赤ちゃんのイエスさまを見て
救い主の誕生を喜びました。一人はシメオン。
もう一人が今日のアンナです。

アンナは若いときに結婚しましたが、
7年後に夫を失いました。
悲しく
辛い経験でした。

その後も信仰を貫き、
今では、神のそばにいることが
何よりの喜びになりました。

アンナは神殿で礼拝し、断食をして祈りに集中し、
自分にできる方法で神に仕えていました。

84歳になった時、
主はアンナに特別なプレゼントを下さいました。
赤ちゃんの救い主を見せて下さったのです。

年をとったら良いことがない、
などと言わないでください。
84歳になって最高の祝福に出会える人もいるのです。


2023/09/01

御国と栄光

ご自分の御国と栄光にあずかるようにと
召してくださる神にふさわしく歩むよう、
勧め、励まし、厳かに命じました。
(第一テサロニケ2:12)

パウロは、テサロニケ伝道を振り返り、
どんなふうに福音を語ったか、
どのように信仰生活を教えたかを
思い出させようとしました。

何のために生きるのか、
聖書を土台にした価値観とは何か、を教えました。

日々の生活や福音宣教は、たとえ小さくとも、
「神の国」建設の一翼を担っていると勧め励ましたのです。

正しい決断、愛のわざ、仕事をすることも
究極的には神の栄光のためなのです。

人生を俯瞰し、
神の栄光にあずかる日を楽しみにして
日々を歩もうと厳かに命じました。

迫害が激しかったテサロニケの人々にとって
霧の中で視野が開ける言葉となリました。

神の国と栄光のために!