2023/02/28

励まし合う交わり

ですからあなたがたは、
現に行っているとおり、
互いに励まし合い、互いを高め合いなさい。
(第一テサロニケ5:11)

オリンピックの団体種目には
特別の清々しさがあります。
自分の番が終わると次の選手の応援に専念し、
成功したら大喜びで、失敗しても「良くやった」と励まします。
金メダルをもらったら、全員が晴れやかな笑顔になります。

クリスチャンの交わりもそれと良く似ています。
努力を重ねた人、苦労した人をみんなで称賛します。
ファインプレーの時は健闘を称え、主を賛美します。
失敗して落ち込んだ人に寄り添って慰めます。

クリスチャンの交わりでは
ひたむきな献身、誠実さ、勇気、祈り、
隠れた愛、福音伝達の熱意、など
誰かの姿が他の誰かを高めることになります。
高め合う交わり。それがクリスチャンの交わりです。

私たちはキリストのチーム。
さむらいジーザス、なでしこクライストとして
励まし合い、高め合う者たちなのです。

 

2023/02/27

荒野に沢を

苦しむ者や貧しい者が水を求めてもそれはなく、
その舌は渇きで干からびる。
わたし、主は彼らに答え、
イスラエルの神は彼らを見捨てない。
わたしは裸の丘に川を開く。
平地のただ中には泉を。
荒野を水のある沢とし、
砂漠の地を水の源とする。
(イザヤ書41:17~18)

生きていくために最も必要なものは水です。
水源が枯れてしまったり、
難民となってたどり着いた場所に水が無かったりすると
人は生きていけません。

彼らを見捨てないと
神は言われました。

谷ならば周囲に山があるので、
山肌に染み込んだ雨水が
泉となって出現する可能性があります。

ですが平らな土地や荒れ地では
泉を見つけることは困難です。

しかし神は言われます。

平地に泉を、荒野を沢に、
砂漠を水源にするというのです。

それができるのが神です。

目の前に横たわる困難という荒野に
主が泉を開いて下さいますように。

2023/02/26

同じ土台の上に

だれも、すでに据えられている土台以外のものを
据えることはできないからです。
その土台とはイエス・キリストです。
だれかがこの土台の上に、
金、銀、宝石、木、草、藁で家を建てると、
それぞれの働きが明らかになります。
(第一コリント3:11~13)

クリスチャンを家にたとえると、
すべての人の土台はただ一つで、イエスさまです。

ただし、その土台の上に
どのような家を建てるかは
人によってかなり違うとパウロは言います。

わらや木や草で家を建てることもできます。
安くて扱いやすい材料なのですぐに作れますが、貧相です。
豪雨や風にも弱いでしょう。

金、銀、宝石で家を作る場合もあります。
ちょっと豪華すぎて現実的には不可能ですが、
信仰者の献身姿勢によっては、そう評価されるかもしれません。

同じキリストを土台としても、
生活態度、主への愛、信仰の純粋さなどの違いで
まったく違う人生になります。

私の家はどんな材料でできているのか
ちょっと考えさせられますね。


パンと杯

ですから、あなたがたは、
このパンを食べ、杯を飲むたびに、
主が来られるまで主の死を告げ知らせるのです。
(第一コリント11:26)

パウロはコリント教会の人々に
聖餐式の大切さを教えました。

福音書の最後の晩餐の記述と比べると分かりますが、
パウロの言葉は主イエスが語られた通りの言葉です。
何も付け加えていません。主イエスがそう言われたのです。

主イエスが言われたようにパンを食べ杯を飲むことを繰り返す。
そこに意味があるのです。

聖餐式自体が、主イエスが生きておられた事と、
主イエスが死なれた事を思い起こさせてくれます。

それと同時に、未来にも開かれた儀式です。
「主が来られるまで」とあるように、
主イエスの再臨まで続けるからですから。

もう一つ。とても静かで内省的な聖餐式なのですが、
福音を伝える宣教のエネルギーを強く持っています。
「主の死を告げ知らせる」ものだからです。


2023/02/25

平和を

どうか、平和の主ご自身が、
どんな時にも、どんな場合にも、
あなたがたに平和を与えてくださいますように。
どうか、主があなたがたすべてとともにいてくださいますように。
(第二テサロニケ3:16)

平和は何よりも大切なものです。

今も戦争が行われています。
人が殺され、家庭と故郷が破壊されています。

99.9%の人は平和を望んでいます。
戦争を望むのはごく一部の特異な人だけです。

パウロは祈りました。
どんな時にも、どんな場所にも、
神が平和を与えてくださるようにと。

テサロニケ教会は
設立の最初から激しい迫害を受けました。
さまざまな暴力や嫌がらせが
日常的に続いていたのでしょう。

どんな時も、どんな場所にも
平和を与えることができるのは
まことの神だけです。

Dona nobis pacem.
(ドナ・ノービス・パーチェム)
「与えたまえ・われらに・平和を」(ラテン語の祈り)

 

2023/02/24

悲しむ者

悲しむ者は幸いです。
その人たちは慰められるからです。
(マタイ5:4)

自分の罪を悲しむ人は、たとえ涙に暮れても、
心砕かれて悔い改めることにより内面が刷新され、
主から赦しと慰めを受けるので
新たな希望と力が生まれます。

親しい人が亡くなって悲しんだり、
希望が打ち砕かれた時はどうでしょう。
共に泣いてくれる人が慰めになります。
一緒にいて何気ない事を話せる人が励みになります。

氷に囲まれた深い悲しみの底辺にいるはずなのに、
その人が黙ってそばにいてくれるだけで
温かな陽だまりにいるような感覚になります。

愛の神、イエスがおられるので
今日の言葉が現実となります。
悲しむ人よ、わたしがあなたを慰めてあげようと
主イエスが語っておられます。

2023/02/23

神から離れ

あなたがたも、かつては神から離れ、
敵意を抱き、悪い行いの中にありましたが、
今は、神が御子の肉のからだにおいて、
その死によって、あなたがたをご自分と和解させてくださいました。
あなたがたを聖なる者、傷のない者、
責められるところのない者として御前に立たせるためです。
(コロサイ1:21~22)

あなたは神を信じる前の自分を思い出せますか。

人と比べて劣等感と優越感の間を行き来していました。
他人を憎み、悪意や敵意を持っていました。
見つからなければ嘘も悪事も平気でした。
心の中はかなり邪悪でした。
神がいるとはこれっぽっちも思いませんでした。
つまり神から離れていたのです。

そんな私たちを神は光の中に連れ出してくれました。

一番神から遠かったのに、
今では、神のそばまで近づけて下さいました。
神と和解させてもらいました。
神のきよさにあずかりたいと思うようになりました。

すべては神の御子、イエスさまのご愛と
十字架によるものです。

2023/02/22

呪いでなく祝福

彼らをエジプトから導き出された神は、
彼らにとって野牛の角のようだ。
まことに、ヤコブのうちにまじないはなく、
イスラエルのうちに占いはない。
神が何をなさるかは、
時に応じてヤコブに、
すなわちイスラエルに告げられる。
(民数記23:22~23)

バラムという人は分かりにくい人です。
イスラエル民族を呪って欲しいと依頼され
引き受けてしまうのですから。

やっと物事の全体像が見えるようになったバラムは、
ピスガの頂きからイスラエルの大群衆を見下ろし、
神からの指示をはっきり理解した上で今日の言葉を述べました。

神はイスラエル民族にとって
野牛の角のように強いお方である。

ユダヤ人は占いやまじないなどを必要とせず、
神ご自身が時に応じて
行くべき道を示して下さる。

まことの神がイスラエルを導いておられるので、
彼らは祝福されているとバラムは宣言したのです。

主は、今日も、私たちにとって
大きな力であり導いて下さるお方です。

2023/02/21

みんなで祈る

彼らは町に入ると、泊まっている屋上の部屋に上がった。
この人たちは、ペテロとヨハネとヤコブとアンデレ、
ピリポとトマス、バルトロマイとマタイ、
アルパヨの子ヤコブと熱心党員シモンとヤコブの子ユダであった。
彼らはみな、女たちとイエスの母マリア、
およびイエスの兄弟たちとともに、
いつも心を一つにして祈っていた。
(使徒1:13~14)

主イエスの十字架と復活の出来事は
十二弟子にとっての一大事件でした。
絶望と栄光。その二つをわずか3日間で経験したのです。

ペテロは三度も主イエスを否んでしまいました。
目で見なければ復活を信じないとトマスは言いました。
ほとんどの弟子は主イエスを置き去りにして逃げ出したのです。
互いを責める口実には事欠きません。

エルサレムのあの部屋には
十字架のそばから離れなかった女性達と
主イエスの母もいましたが、
彼女たちは弟子たちを責めませんでした。

責任追及や話し合いで心は一つになれません。

みんなで祈る中で、混沌とした思いが鎮められ、
主イエスの十字架こそが救いであった、
互いに愛し合いなさいとイエスさまは言われた、
聖霊が下る約束を信じて待とう、という機運が起きたのです。

誰かと一緒に祈る事は素晴らしいことなのです。

2023/02/20

目を留めていただいた

この卑しいはしために目を留めてくださったからです。
ご覧ください。
今から後、どの時代の人々も私を幸いな者と呼ぶでしょう。
力ある方が、私に大きなことをしてくださったからです。
(ルカ1:48~49)

マリアは天使から受胎告知を受け、
救い主の母になる事を知りました。

最初はひどく驚き、将来を心配しましたが
信仰をもって受け止めることができました。

すると大きな喜びに満たされ、
感謝と賛美の言葉が溢れてきました。

自分の不十分さ、弱さ、小ささを深く認めながらも、
神の選び、神が託して下さった使命に感動しました。

私を見て下さい、こんな私が選ばれたのですよ。
私は本当に幸せ者です。

神は今もあなたに目を留めて下さっています。
そのままのあなたを喜んでおられます。
「力ある方」があなたに素晴らしいことをして下さいます。
マリアのように用いていただきましょう。

2023/02/19

父ちゃん

そして、あなたがたが子であるので、
神は「アバ、父よ」と叫ぶ御子の御霊を、
私たちの心に遣わされました。
(ガラテヤ4:6)

有名な伝道者をお招きして
礼拝前に一緒に祈ったことがありました。
先生が「父ちゃん」と親しみを込めて祈り始めたので
私は椅子から落ちそうなくらい驚きました。
私が高校時代に救われて以来、
公の場でこのように祈った先生に初めて出会いました。

アバとは父のことで、幼児が父親を呼ぶ時に使います。
ですから、まさに「父ちゃん」という感じなのです。

聖霊は私たちの心に
父なる神への親密感を与えて下さいました。

全能者、創造主、栄光の神、聖なる神。
確かに聖書が教える神とはそういう方です。
ですが、私たちは神の子とされたので
アバと呼びかけることができるのです。
神はそういう関係を喜んで下さっているのでしょう。

親しみの心と尊敬の心の両方を込めて
神を父さんと呼んでみると
何か不思議な気がします。アバ、父よ。

2023/02/18

全焼のささげもの

そのささげ物が牛の全焼のささげ物である場合には、
傷のない雄を献げなければならない。
その人は自分が主の前に受け入れられるように、
それを会見の天幕の入り口に連れて行き、
その全焼のささげ物の頭に手を置く。
それがその人のためのなだめとなり、彼は受け入れられる。
(レビ記1:3~4)

全焼のいけにえをささげるために
傷のない雄牛を連れて来ます。
グレードの低い牛、欠陥のある牛は不適格で
最高の牛をささげます。

なぜなら、全焼のいけにえは
神への完全な献身を表わす礼拝行為だからです。

私の命、私の能力、私の時間、私の思い、
私の財産、私の未来、すべてはあなたのものです、
という献身の心を象徴する犠牲です。

その牛の頭に自分の手を置く行為は、
牛はその人の身代わりだという意味です。

祭司は規定の処置を終えて
すべてを祭壇の上で焼き尽くします。

牛を携えて来た人は、流された血、炎、香り、立ち昇る煙、
そのすべてを体感して、私自身をささげたと実感するのです。

我ささぐ、みなささぐ、新聖歌391番の歌詞を思い出します。

2023/02/17

変えられている

私たちはみな、覆いを取り除かれた顔に、
鏡のように主の栄光を映しつつ、
栄光から栄光へと、
主と同じかたちに姿を変えられていきます。
これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。
(第二コリント3:18)

主イエスを信じて洗礼を受けると
ゴールインしたように感じる人がいますが、違います。
それは、スタートラインにすぎません。

主イエスを信じて罪赦され新しく生まれた人は
変えられる人生に入ったのです。
主と同じかたちに姿を変えられるという
エキサイティングな人生の旅人になったのです。

昔の流行歌に
君は……変わった、という歌詞がありましたね。
(歌手名はフセます)

私たちは、変わっただけでなく、
変わり続けるのです。
聖霊が私たちの内に住んでおられるので
キリストに似た者へと変えられるのです。

私たちが失敗したり、自分の罪深さに愕然としたり、
大きな試練を通ったりする中で
聖霊が私たちをきよめて下さいます。

現在の自分にがっかりしないで下さい。
まだ、あなたは工事中なのですから。

 

2023/02/16

互いに。主にだけ。

詩と賛美と霊の歌をもって互いに語り合い、
主に向かって心から賛美し、歌いなさい。
(エペソ5:19)

詩、賛美、霊の歌は当時の賛美の種類のことで
詩篇や聖句をそのまま歌ったり、
信条や信仰の体験を歌にする場合もあったようで
賛美の内容の豊かさが感じ取れます。

賛美で互いに語り合うと書いてありますが、
ある人々が賛美し他の人がそれに耳を傾け、
その中で互いが学んだり慰めを受けたりするのでしょう。

賛美をもって互いに語り合うだけでなく、
賛美本来の垂直性、
つまり神にだけ向かって歌うことが強調されています。

歌が好きとか音痴だとか、そういう事とは無関係に、
すべての信仰者は賛美に招かれています。
「歌いなさい」と命じられているのです。

不思議なもので、
鼻歌ではなく、ちゃんと賛美する時は、
賛美以外のことが何もできません。
賛美は礼拝であり祈りなのです。

賛美の歌詞に自分の気持ちを重ねましょう。
静かな祈りでは表現しきれない部分を
メロディーに乗せて歌いましょう。

2023/02/15

さばきは神のもの

裁判では人を偏って見てはならない。
身分の低い人にも高い人にもみな、
同じように聞かなければならない。
人を恐れてはならない。
さばきは神のものだからである。
あなたがたにとって難しすぎる事柄は、
私のところに持って来なさい。私がそれを聞こう。」
(申命記1:17)

荒野を旅したイスラエルの民の間で
民事訴訟や刑事事件が発生しました。

モーセの指導によって
十人の長、五十人の長、千人の長などが配置され
裁判官の役割をしていました。

人の話を虚心坦懐に聞く事が大切で、
それが大原則だとモーセは言いました。

ユダヤ人の意見も、寄留者である外国人の話も、
身分の高い低いなども関係なく耳を傾け、
人をかたよって見てはならないと教えました。

さばきは神のものだからです。
そして人を恐れてはならないのです。

私たちも公正を愛しましょう。
人の目を恐れずに生きましょう。

2023/02/14

役にたたないもの

「主よ、私の力、私の砦、
苦難の日の私の逃れ場よ。

あなたのもとに、

諸国の民が地の果てから来て言うでしょう。

『私たちの父祖が受け継いだものは、

ただ偽りのもの、

何の役にも立たない空しいものばかり。

人間は、自分のために神々を造れるだろうか。

そのようなものは神ではない』と。」

(エレミヤ16:19~20)

どの国にも民族にも、
言い伝え、慣習、迷信が多数あります。
でも、なぜそれが正しいのか、
根拠は何か、誰も説明できません。

日本にも父祖から受け継いだものがたくさんあり、
理由なしに恐れたり、必死に守ったりしています。

今日の聖句では、
やがて色々な国の人がやって来て、
その迷信や信心などの正体に気づいて
失望感を表明するというのです。

今までの神々は何の役にもたたなかった、
人が造った神は神ではなく空しいものだったと。

まことの神は生ける神。
苦難の時の逃れ場となり、力となり、
砦となって、私たちを守って下さる方です。
ハレルヤ。

2023/02/13

主は砦

主は虐げられた者の砦
苦しみのときの砦。
御名を知る者は あなたに拠り頼みます。
主よ あなたを求める者を
あなたはお見捨てになりませんでした。
(詩篇9:9~10)

自軍が優勢なら敵陣を包囲して戦います。
劣勢で追い込まれた時は
城壁の内側にこもり、砦から応戦します。

ダビデの人生は戦いの連続でした。
剣を抜いて戦うこともあれば、
精神的な戦いも多くありました。

今日の聖句のように
追い詰められたり、
しいたげられたことも度々ありました。

神さまにしか頼れない
ぎりぎりの戦いの時に
神こそ砦であるとダビデは強く実感したのです。

人生の戦いで
防戦一方になった時でも
失望しないで神に信頼しましょう。
神はあなたの砦です。


2023/02/12

あなたを見ました

私はあなたのことを耳で聞いていました。
しかし今、私の目があなたを見ました。
ちりと灰の中で。
(ヨブ記42:5~6)

信仰者ヨブは大きな災難を経験した後に
神に強く反発、
持論を友人たちにぶつけていました。
その議論を聞いておられた主が
直接ヨブにお語りなったのがヨブ記の最終部分です。
それを受けてヨブが口に出したのが
今日の言葉になります。

今まで神のことを耳で聞いていましたが、
今、初めて神を見たという感覚でした。
つまり神のことを何も知らなかったと悟ったのです。

自分の言動を悔い改めて
文字通り灰とちりの中で
自分を見つめ、
神の前に低い心で出ました。

私たちも天で主とお会いするとき、
ヨブと同じことを言うかもしれませんね。

2023/02/11

神を恐れる人

彼は言った。「ヘブル人の女の出産を助けるとき、
産み台の上を見て、もし男の子なら、
殺さなければならない。女の子なら、生かしておけ。」
しかし、助産婦たちは神を恐れ、
エジプトの王が命じたとおりにはしないで、
男の子を生かしておいた。
(出エジプト記1:16~17)

ヨセフの事を忘れ去ったエジプトでは、
人口の多いユダヤ民族が脅威とみなされ、
生まれた男子を殺害するようエジプト王が命令しました。

ユダヤ人の助産婦たちは
こうした指示を知っていましたが
男の赤ちゃんの命を助けていました。

国からの命令が神のみこころに逆らう。
そうした事態は歴史上、何度も起きました。

国に逆らうことは勇気のいることで、
見つかれば処刑されます。

神を恐れる生き方や祈りは
普段隠れている勇気を引き出してくれます。
神のことば、聖書が
為すべきことを照らして明らかにしてくれます。

主よ、今日、主を恐れる心と勇気を与えて下さい。


2023/02/10

ピラトの正義

ピラトは彼らに言った。
「あの人がどんな悪いことをしたのか。」
しかし、彼らはますます激しく叫び続けた。
「十字架につけろ。」
(マルコ15:14)

人殺しのバラバと主イエスを並べれば
恩赦の対象は主イエスになるはずだと予測し
ピラトは民衆に提案しました。

ところが群衆は祭司長に抱き込まれていたので
バラバに恩赦を、主イエスに十字架を要求しました。

総督ピラトは主イエスの無罪を必死に主張し、
主イエスの肩を持って叫びました。
「あの人がどんな悪いことをしたのか」

正しい人が死刑になるのを
ピラトは見ていられなかったのです。
民衆の反発に腹を立てていたのです。

主イエスは死刑の決定と群衆の姿を
静かに受け入れておられました。
ほふり場に引かれて行く羊のように。

罪のない神の子イエスさまが
十字架にかかって
私のために死なれたことを感謝しましょう。

2023/02/09

責任転嫁?

主は言われた。
「あなたが裸であることを、だれがあなたに告げたのか。
あなたは、食べてはならない、とわたしが命じた木から食べたのか。」
人は言った。
「私のそばにいるようにとあなたが与えてくださったこの女が、
あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです。」
(創世記3:11~12)

神があれほど言っておられたのに
アダムとエバは食べてしまいました。

主が期待しておられた回答は何だったのでしょう。
「ごめんなさい。私が食べました」というアダムの言葉です。

ところが、アダムは謝罪しません。
悪いのはこの女だと責任転嫁しました。
その上、この女を連れて来たのは神であり、
暗に、悪いのは神だと非難しています。

アダムの思考パターンや言動は
私たち罪人とまったく同じです。

失敗したら、謙虚に自分の非を認める。
それが正しいリスタートです。

世の夫たちよ、良く聞いて下さい。
アダムが次のように言ったら妻から愛されたことでしょう。
「申し訳ありませんでした。
私があなたの命令に背いて食べました。
妻には何の落ち度もありません。
私の監督不行き届きでしたので、私だけを罰して下さい。」

2023/02/08

聖なる、聖なる

この四つの生き物には、それぞれ六つの翼があり、
その周りと内側は目で満ちていた。

そして、昼も夜も休みなく言い続けていた。

「聖なる、聖なる、聖なる、

主なる神、全能者。

昔おられ、今もおられ、やがて来られる方。」

(黙示録4:8)

使徒ヨハネは、御霊に導かれ、
預言者イザヤも見た天の栄光を目撃しました。
御座の周囲を飛び回る生き物は
「聖なるかな」と賛美を続けました。
ヨハネの心も賛美に引き上げられた事でしょう。

主から良いものを受けた時に私たちは
その受けたものを注視して感謝します。

賛美は、神にだけ目を向け、
その素晴らしさをたたえることです。

聖なる方をたたえましょう。
全能者を賛美しましょう。
永遠の神をあがめましょう。

歌を忘れたカナリヤという歌詞がありましたが
賛美を忘れた人になってはいけません。

私たちは愚痴を言うために生まれたのではありません。
神を賛美するために造られました。

今日も主を賛美しましょう。

2023/02/07

金細工人

その傍らでは金細工人のハルハヤの子ウジエルが修復を行い、
その傍らでは香料作りの一人ハナンヤが修復を行った。

こうして、彼らはエルサレムを、幅広の城壁のところまで修復した。

(ネヘミヤ記3:8)

ネヘミヤのリーダーシップによって
エルサレムの城壁再建工事が始まりました。

ネヘミヤ記3章には
様々な人の作業の様子が書いてあって
絵本『ウォーリーを探せ』のようで
とても微笑ましいです。

ウジエルは金細工人でした。
普段は繊細な工芸作業をしていた人なのに
大きな石と木材を使う荒仕事に励んでいます。

ハナンヤは香料作りの人で
つまり香水をブレンドする専門家ですが、
みんなの町を守るために
慣れない作業に協力しました。

賜物に応じて奉仕することが基本ですが、
大勢の力が必要な時には、
畑違いの苦手な仕事もしてみましょう。

皆で力を合わせる事は嬉しいことです。

2023/02/06

あなたからの励まし

というより、あなたがたの間にあって、
あなたがたと私の互いの信仰によって、
ともに励ましを受けたいのです。
(ローマ1:12)

パウロはローマに行きたいと願っていました。
でも、なかなか道が開かれずに
歯がゆい気持ちでした。

それでも、パウロはローマのクリスチャンに会うのを
楽しみにしていました。
たがいの信仰によって励ましが受けられるからです。

クリスチャンは、
他のクリスチャンとの語らいに
特に喜びを見出す人々です。

他のクリスチャンの生き方から刺激を受け、
聖書の読み方から多くを学び、
祈りや奉仕や伝道の姿勢からも教えられます。

使徒パウロですら
無名のクリスチャンから励ましを受けていたのです。

聖徒の交わり、とても大切です。
今週も誰かから励ましが受けられると良いですね。



2023/02/05

青銅の蛇

すると主はモーセに言われた。
「あなたは燃える蛇を作り、それを旗ざおの上に付けよ。

かまれた者はみな、それを仰ぎ見れば生きる。」

モーセは一つの青銅の蛇を作り、

それを旗ざおの上に付けた。

蛇が人をかんでも、その人が青銅の蛇を仰ぎ見ると生きた。

(民数記21:8~9)

イスラエルの民が荒野の生活に疲れ果て、
主とモーセに反発し、
その結果、蛇によって多くの人が死んでしまいました。
民が悔い改め、モーセに助けを求めたので、
主は解決方法を示されました。


モーセは青銅の蛇を作り旗竿の先に取り付けました。
蛇にかまれた者は、主に助けを求めながら
その青銅の蛇を仰ぎ見ました。
すると救われました。

主イエスは、ご自分をその青銅の蛇と重ねて
「人の子も上げられなければなりません」(ヨハネ3:14)
と言われました。

聖書の中心メッセージは
主イエスを仰ぎ見て、救われよ、です。

2023/02/04

主を恐れることが

主を恐れることは知識の初め。
愚か者は知恵と訓戒を蔑む。
(箴言1:7)

ある人々は、
宇宙のエネルギーや法則とか運命が神だと主張します。
神を非人格的な存在だと想定しています。

クリスチャン哲学者のフランシス・シェーファーは
聖書の神の特徴を「無限で人格的な神」と説明しました。
全能者であり、時間を超えた大いなる存在でありながら、
私たちと語り合い、愛の交流のできるお方が聖書の神なのです。

さて、今日の聖句に目を留めましょう。

知識の蓄積や人間の洞察だけでは真理に到達できません。
神を恐れる心がどうしても必要なのです。

神という途方もない規模の創造主の前に出て、
礼拝、静寂、祈り、神のことばの傾聴など、
つまり人格的な神との交流、神をおそれることによって
人は自分を知り、世界を知ることになるのです。

平らな心で生ける主を見上げて
主をもっと知っていきましょう。
すべての知恵や知識の源泉がそこにあります。

2023/02/03

泣く声を聞かれる主

不法を行う者たち みな私から離れて行け。
主が私の泣く声を聞かれたからだ。
主は私の切なる願いを聞き
主は私の祈りを受け入れられる。
(詩篇6:8~9)

将棋の藤井聡太君は小学生時代、
泣き虫で有名だったいいます。

今日の聖句によれば、
勇者ダビデも大泣きしたようです。

主は私の泣く声を聞いて下さったと
ちょっと胸を張っている雰囲気があります。

勇者ダビデも敵の攻撃や批判を受け、
将棋で言えば投了寸前だったのですが、
涙で神に訴えたのでしょう。

神のあわれみを受けたので、
頬に涙が残る中であっても
ダビデは立ち上がることができました。

神はあなたの泣く声を聞かれる方です。


2023/02/02

耐えられない試練に

あなたがたが経験した試練はみな、
人の知らないものではありません。
神は真実な方です。
あなたがたを耐えられない試練に
あわせることはなさいません。
むしろ、耐えられるように、
試練とともに脱出の道も備えていてくださいます。
(第一コリント10:13)

大きな試練に出会った時、
最初は、もうだめだと思います。
戦わずに降参してしまいます。

壁が高すぎて、お金が払えそうもなく、
敵が強すぎて私が弱すぎて、問題が複雑すぎて、
頼る人も無く、知識も無く、経験も無く、
世間体が悪い、勇気がない。
絶対無理だという理由は100くらい言えます。

そんな私たちだから今日の聖句が必要なのです。
ポイントは3つあります。

1、耐えられない試練はない。

2、どんな試練の中でも、神は真実で変わらない。

3、試練とともに脱出の道がある。

今日の聖句を暗記していない人は覚えて下さい。
祈りの中でこの聖句を言いましょう。
そして、あなたの信仰にしてください。

2023/02/01

シモンはペテロ

こうしてイエスは十二人を任命された。
シモンにはペテロという名をつけ、

ゼベダイの子ヤコブと、ヤコブの兄弟ヨハネ、

この二人にはボアネルゲ、

すなわち、雷の子という名をつけられた。

(マルコ3:16~17)

主イエスは十二弟子を選び、
シモンとヤコブとヨハネの3人にだけ
特別な名前を与えました。

シモンをペテロ(岩)と呼びました。
積極的なペテロですが、
主イエスを三度も否んでしまう弱さを持っていました。
ですから、
聖霊によって変えられて行く未来像を示して、
シモンの励みにされたのでしょう。

ヤコブとヨハネにはボアネルゲ(雷の子)。
怒りっぽい二人に注意を促し、
強い正義感をきよさや愛で包むようにと
主イエスがユーモアを込めて言われたのでしょう。

主イエスは、あなたにどんな名をつけて呼んでくれるでしょう。
将来の希望を示す名前なら、どんな名でしょう。
現在の欠点を矯正する名前なら、どうなるでしょう。

イエスさまがニコッとしながら
あなたに新しい名を付けてくれます。