2024/03/31

イースター、おめでとう

さあ行って、弟子たちとペテロに伝えなさい。
「イエスは、あなたがたより先にガリラヤへ行かれます。
前に言われたとおり、そこでお会いできます」と。
(マルコ16:7)

ハッピー・イースター!
主イエスはよみがえられました。

2000年前の今日、
主イエスは死を打ち破り、
元気な姿を示して下さいました。

空っぽの墓には天使が立ち、
香油を塗りに来た女たちに言いました。
あの方はよみがえられたと。

主イエスはガリラヤでゆっくり会う予定にしています。
それを十二弟子、特にペテロに伝えるように言いました。

主イエスは、今も生きておられます。
私たちもやがて主イエスにお会いできます。

主イエスはよみがえられました。
あらゆる苦しみ、絶望、不可能を越え
絶大な希望を与えるものがイースターなのです。

2024/03/30

番をしてください

「ですから、三日目まで墓の番をするように命じてください。
そうでないと弟子たちが来て、彼を盗み出し、
『死人の中からよみがえった』と民に言うかもしれません。
そうなると、この惑わしのほうが、
前の惑わしよりもひどいものになります。」
(マタイ27:64)

主イエスが十字架で処刑されたのが金曜日、
土曜日は安息日なので動きはありません。

祭司長やパリサイ人は、
墓の番をしてほしいとピラトに依頼しました。
弟子たちが主イエスの遺体を盗み出す可能性を指摘しました。

十二弟子にはそんな気力はありません。
意気消沈し、悲しみに暮れていたのです。
逮捕も恐れていました。

遺体を盗み出し、嘘を承知で復活したと言えるほど、
十二弟子は厚顔無恥ではありません。

弟子たちよりも、祭司長たちのほうが
主イエスの復活予告を気にかけていました。

十字架とイースターの間に
とてもダークな土曜日がありました。
今、暗闇を通っているなら、
イースターの喜びはもうすぐです。

2024/03/29

十字架の下では

彼らはイエスに、
苦みを混ぜたぶどう酒を飲ませようとした。
イエスはそれをなめただけで、
飲もうとはされなかった。
彼らはイエスを十字架につけてから、
くじを引いてその衣を分けた。
(マタイ27:34~35)

今日は受難日です。
主イエスは、
苦しみを和らげるぶどう酒を拒否されました。

「彼らはイエスを十字架につけてから」とあります。
2000年前の今日、
主イエスは十字架につけられました。

刑の担当者は、
十字架で苦しむ方が誰かを気に留めず、
死刑囚の着ていた服を誰がもらうかの
くじ引きに夢中でした。

こうした描写は、
目撃者しか伝えられないリアルな情報なのです。

罪のない神の子である
救い主が十字架にかけられたのです。

十字架、
それは私たちの罪が処罰されたところ、
神の愛が凝縮した場所。

十字架を感謝します。

2024/03/28

悲しみのあまり

そして、ペテロとゼベダイの子二人を一緒に連れて行かれたが、
イエスは悲しみもだえ始められた。
そのとき、イエスは彼らに言われた。
「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。
ここにいて、わたしと一緒に目を覚ましていなさい。」
(マタイ26:37~38)

それは今から2000年前のこの時期でした。
ゲッセマネに到着された時、
主イエスは耐えがたいほどの悲しみに包まれていました。

普通の人間が自分の最期を悟った時は、
死の恐怖、別れの辛さ、孤独、絶望などが入り混じるものです。

イエスさまは悲しみのあまり死ぬほどだと言われました。
正直な思いを吐露されています。
悲しみもだえておられます。

主イエスの死には
すべての人類の罪の身代わりという過酷さと
全人類の罪の罰を受けるという想像を絶した苦難が待っています。

私たちには主イエスの悲しみは想像できませんが、
生の人間として悲しみに圧倒されていた事は事実です。
十二弟子がそばにいるだけで励ましになりました。

悲しみのあまり死ぬほどという主イエスの姿に
私たちは驚きと同時に慰めを覚えます。

今週は受難週です。
主イエスの十字架と苦しみを心に留めましょう。

2024/03/27

あなたの罪は赦されたのです

「しかし、人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、
あなたがたが知るために。」
そう言って、それから中風の人に
「起きて寝床を担ぎ、家に帰りなさい」と言われた。
すると彼は起き上がり、家に帰った。
(マタイ9:6~7)

ずばり言います。
あなたの罪は赦されました。

どうしてそう言えるのでしょう?
主イエスの言葉と奇跡の関係性に注目して下さい。

脳出血の後遺症で寝たきりの人が
主イエスの前に横たわっていました。
主イエスはその男の人を癒すに当たり、
罪を赦す権威を持つ証拠として
奇跡を行うとあらかじめ明言されたのです。

律法学者という反対者の目の前で、
主イエスは男性を癒し、立たせました。

主イエスを信じたあなたの罪は
赦されたのです。

2024/03/26

律法と預言者と詩編

そしてイエスは言われた。
「わたしがまだあなたがたと一緒にいたころ、
あなたがたに話したことばはこうです。
わたしについて、
モーセの律法と預言者たちの書と詩篇に書いてあることは、
すべて成就しなければなりません。」
(ルカ24:44)

主イエスが旧約聖書を何度も
十二弟子に教えてこられた事がわかります。
その目的は以下にあったのです。

旧約聖書の預言は
主イエスの生涯において成就する。

旧約聖書の全39巻を分類すると
モーセの律法、預言書、詩編になります。
そのすべてにおいて、救い主がどんな方か、
何をされるのかを預言していました。

十字架に示された主イエスの愛、
奇跡と復活で明らかになった偉大な神の力、
そして、聖書全体の預言の成就としての生涯。
これらすべてが主イエスを信じる土台なのです。

主イエスが苦しまれること、
裏切られること、死ぬことも
聖書の預言の成就でした。


今週は受難週です。

2024/03/25

天の父の子

天におられるあなたがたの父の子どもになるためです。
父はご自分の太陽を悪人にも善人にも昇らせ、
正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからです。
(マタイ5:45)

正しい人はいつも晴れ。
悪人の空はいつも雨。
そうなると天気予報士は困ってしまいます。

父なる神の心は大空より広く、
大海原よりも深いのです。

父は、悪人も善人もへだてなく
太陽も雨も全員に注いてくださいます。

神は誰にでも愛と恵みをお与えになります。

それが天の父です。

私たちは父の子どもです。
だから、父と同じ心を持つことが可能です。
誰かの太陽にもなってあげましょう。
誰かに恵みの雨を注ぎましょう。


私たちは天の父の子供です。

2024/03/24

かっこ悪い青年

ある青年が、からだに亜麻布を一枚まとっただけで
イエスについて行ったところ、
人々が彼を捕らえようとした。
すると、彼は亜麻布を脱ぎ捨てて、裸で逃げた。
(マルコ14:51~52)

マルコの福音書だけに残る記録です。

この青年はあの夜エルサレムにいました。
主イエスの逮捕を知らされ飛び起きたのでしょう。
深夜なので誰にも見えないし、急いでいたので、
裸のまま布だけまとって外に出たようです。

青年はイエスさまの弟子の一人で
主イエスを愛していたはずです。

自分も逮捕されそうになったので
亜麻布を捨てて逃げました。
ただ、それだけの話なのです。

本人以外知りえないストーリーなので、
福音書を書いたマルコの事だと思われます。

裏切って主イエスを見捨てたのは
ペテロや十二弟子だけでなく、
私も同罪ですと言いたいのでしょう。
それを記録に残したかったのです。

そして、こんな私が罪赦され、
主イエスを伝える者とされていますと
伝えたかったのです。

2024/03/23

神とともに住む

私はまた、大きな声が御座から出て、こう言うのを聞いた。
「見よ、神の幕屋が人々とともにある。
神は人々とともに住み、人々は神の民となる。
神ご自身が彼らの神として、ともにおられる。」
(黙示録21:3)

黙示録のクライマックスは
新しい天と新しい地の登場です。
新しいエルサレムが天から降ってきます。

大きな声が御座から出て
今日の言葉が語られます。

私たちは今、
神を直接見ることはできません。
ですが、神が人と共に住む時が来ます。

その時、
神は人々の目から涙をことごとく
ぬぐい取ってくださいます。
涙の原因になる悲しみ、苦痛、別離、失望がないからです。
そして死がありません。

今、悲しみの谷を歩んでいる人に、
このみことばを贈ります。

2024/03/22

軍師アヒトフェル

アブサロムとイスラエルの人々はみな言った。
「アルキ人フシャイの助言は、アヒトフェルの助言よりも良い。」
これは、主がアブサロムにわざわいをもたらそうとして、
主がアヒトフェルのすぐれた助言を
打ち破ろうと定めておられたからである。
(第二サムエル17:14)

ダビデの時代に二人の軍師がいました。
一人はアヒトフェル。
もう一人はフシャイです。

ダビデの息子アブサロムのクーデターが起きた時、
アヒトフェルはアブサロムの側近になりました。
ダビデが都から逃げた事を受け、アヒトフェルはアブサロムに進言しました。
ダビデは意気消沈しています、一万二千人の兵士を与えて下さい、
夜のうちに急襲すれば勝敗は決しますと。

一方、フシャイは、時間をかけて大軍勢を集め、
アブサロムが指揮をして戦うことを勧めました。
フシャイのプランはダビデを死なせないための偽作戦でした。

アヒトフェルの計画こそが正解でしたが、
アブサロムは、名誉心をくすぐられたのでフシャイ案を選び、
結局は戦死してしまいます。

主は今も、あなたを不利に陥れる計画を葬り去り、
あなたを救い出して下さる方です。

2024/03/21

一人ではありません

見なさい。その時が来ます。
いや、すでに来ています。
あなたがたはそれぞれ散らされて自分のところに帰り、
わたしを一人残します。
しかし、父がわたしとともにおられるので、
わたしは一人ではありません。
(ヨハネ16:32)

海外旅行に慣れていない若い頃でした。
インドネシアのジャカルタ空港に下り、
迎えの人が来るのを待っていた時、
私は異国で一人だと孤独を感じました。
(とはいえ周囲には多数の現地の人がいました)

人が死を恐れる理由の一つは孤独です。
愛する人との別離は極めてつらいです。

主イエスは十字架の死を前に、
十二弟子の裏切りと逃走を覚悟されていました。
一人取り残される時が来ると覚悟されました。

主イエスには一人になっても支えてくれる方がおられました。
父なる神です。決して見捨てない父。
そこに大きな安心がありました。

私たちも一人ではありません。



2024/03/20

無駄にした?

すると、何人かの者が憤慨して互いに言った。
「何のために、香油をこんなに無駄にしたのか。」
(マルコ14:4)

ある女性がイエスさまに香油を注ぎました。
とても高価な香油でした。

周囲の者がもったいないと彼女を責め、
300デナリも無駄にしたと言いました。
年収ほどの金額になります。

自分のお金をどう使おうと他人には関係ないはずです。

主イエスの死が近いと感じたのはこの女性ただ一人でした。
どんなに責められても彼女は言い訳をしませんでした。

彼女は愛と感謝を示しました。
主イエスへの献身の表れなのです。

主イエスへの献身を無駄と言って責めるのは
自分の信仰の乏しさを告白するようなものです。

主イエスのためにささげたものに
無駄は一切ありません。

私たちも主イエスのため香油をささげましょう。

2024/03/19

乾いた地に

わたしは潤いのない地に水を注ぎ、
乾いたところに豊かな流れを注ぎ、
わたしの霊をあなたの子孫に、
わたしの祝福をあなたの末裔に注ぐ。
(イザヤ44:3)

可能性がまったくない時はあきらめます。
これは理性的で常識的な対応です。

可能性がまったくないから、主に期待する。
これは主がおられるゆえの希望です。

潤いのない土地、乾ききった荒地。
そんな場所に水を注ぎ、
川の流れを作ると主は言われます。

私たちにとっての荒野とは何でしょう。

それに加えて、
私たちの子供たち、孫たち、子孫に、
祝福を注いでくださると言われます。
まだ見ぬ未来に、まだ見ぬ子孫に、
神の祝福が届くというのです。

信仰に基づく将来図を心に描きましょう。

2024/03/18

御顔を向けてください

主よ私に答えてください。
いつくしみ深いあなたの恵みのゆえに。
あなたのあわれみの豊かさにしたがって
私に御顔を向けてください。
あなたのしもべに御顔を隠さないでください。
私は苦しんでいます。
早く私に答えてください。
(詩編69:16~17)

あなたは今、弱さを感じていますか。
体が不調の人、心が沈む人、物事がうまく進まない人、
何らかの苦しみを抱えている方がいますか。

今日の詩編では、
苦しむ者が神の助けを求めています。
神がお顔を向けて下さるだけで良いと考えています。

辛い時には、普通、前向きに考えられず、
下を向いたり、現実から目を背けたりします。

今日の人物は、意識して目を上げ始めました。
神が持っておられる素晴らしい点に注目しています。

慈しみとあわれみをもって
私に目を向けて下さいと祈っています。

主とアイコンタクトして心をつなげましょう。
主はあなたに御顔を向けてくださいます。

2024/03/17

敬虔の鍛錬

肉体の鍛錬も少しは有益ですが、
今のいのちと来たるべきいのちを約束する敬虔は、
すべてに有益です。
(第一テモテ4:8)

歯科クリニックの待合室でこんな文章を見ました。
<歯医者は治療のために来るのでなく
予防のために来るところです>
上手なキャッチコピーですね。

肉体の鍛錬は有益です。
病気になって薬を飲むよりも
少し運動して元気になるほうが良いです。

神を信じる純粋な心、愛と正義と祈りの実践、
その二つが調和したものが敬虔な生き方です。

信仰を生活に表そうとして、
行動を変え、工夫することは
敬虔の鍛錬と言えるでしょう。

朝のデボーションを日課とすることや、
感謝ノートを書くことも敬虔の鍛錬になります。

信仰のエクササイズは
今と未来を変える力があるのです。

2024/03/16

罪を犯したなら

どうして、あなたは主のことばを蔑み、
わたしの目に悪であることを行ったのか。
あなたはヒッタイト人ウリヤを剣で殺し、
彼の妻を奪って自分の妻にした。
あなたが彼をアンモン人の剣で殺したのだ。
(第二サムエル12:9)

ダビデは敬虔でした。純粋な信仰を持っていました。
祈りの人で、困難な時にも主を信頼して歩んだ人でした。

王国が確立し、戦争は将軍らに任せるようになりました。
ダビデは人妻バテ・シェバを招き入れ姦淫の罪を犯しました。
後に妊娠したと知らされます。

罪を隠蔽しようと画策しましたが失敗。
バテ・シェバの夫ウリヤを殺せとダビデは将軍に命じ、
無謀な攻め方をさせられたウリヤは戦死しました。

預言者ナタンがその罪を暴露し責めたのが今日の箇所です。

私たちの罪はすべて神に知られています。
罪を隠すことは愚かで卑劣です。
結局は傷口を大きくしてしまいます。

悔い改めは早く。
それに尽きます。

2024/03/15

めぐみが追って

まことに私のいのちの日の限り
いつくしみと恵みが私を追って来るでしょう。
私はいつまでも主の家に住まいます。
(詩編23:6)

主は私の羊飼いと告白して、詩編23篇は始まります。
ダビデの主への信頼はゆるぎません。

水と牧草のある地に導かれた羊のように、
ダビデも主に養われ、導かれてきました。。
人生を振り返ると主が共におられたことに気づき、
主の守りがあったことを確認できました。

たとえ死の陰の谷を歩む時でも、
主に支えられてきました。

今日の聖句でダビデが言いたいことは、
未来は心配していないということです。

いのちの日の限り、これからの生涯のすべてで
神の愛が途絶えることはなく、
神の恵みがダビデを追いかけてくると確信しています。

雨男と呼ばれる人が時折います。
ダビデは、信仰的晴れ男と言ってもいいですね。
将来に対する信仰的楽観論で貫かれています。

いつくしみと恵みとがあなたを追って来ます。



2024/03/14

イタイ

イタイは王に答えて言った。
「主は生きておられます。
そして、王様も生きておられます。
王様がおられるところに、
生きるためでも死ぬためでも、
このしもべも必ずそこにいます。」
(第二サムエル15:21)

息子アブサロムのクーデターを知り
ダビデは少数の者を連れてエルサレムを脱出しました。
首都を争いの場にしないためです。

その時、イタイとその部下600人が
ダビデと行動を共にしました。

ダビデは彼らを帰そうとしました。
あなたたちは外国人であり、
私に義理立てはいらないと伝えました。
そこでイタイが言ったのが今日の言葉です。

「このしもべも必ずそこにいます」

イタイの言葉は忠誠を表す言葉です。
主に対する私たちの献身の言葉にも通じます。

主がおられるところ、
私たちも必ずそこにいます。

2024/03/13

家はあります

わたしの父の家には住む所がたくさんあります。
そうでなかったら、
あなたがたのために場所を用意しに行く、
と言ったでしょうか。
(ヨハネ14:2)

なぜ死ぬのが怖いのでしょう。
その理由の一つは、
死後の世界がまったくイメージできないからです。

主イエスは、まるで不動産エージェントのように
今後のことをかみ砕いて教えておられます。

1、必ずイエスさまに会えます
2、そこには新しい生活があります
3、主イエスが私たちの家を備えて下さっています

主イエスの口調に注目して下さい。
こんな初歩的な事が分からないようだね、
くどいようだが分かりやすく説明するね、
という感じで語っておられます。

だから、14章1節にあるように、
心を騒がす必要がないのです。

家は用意されています。

 

2024/03/12

露を降らせて下さい

ギデオンは神に言った。
「もしあなたが言われたとおり、
私の手によってイスラエルを救おうとされるのなら、
ご覧ください。
私は刈り取った一匹分の羊の毛を打ち場に置きます。
もしその羊の毛だけに露が降りていて、
土全体が乾いていたら、あなたが言われたとおり、
私の手によって、あなたがイスラエルをお救いになると私に分かります。」
(士師記6:36~37)

ギデオンは細かい。
いい加減にしなさい、と言いたくなるほど、
小さな事に執着する人でした。

私が指導者として用いられる、という事が本当なら、
証拠を見せて下さい、というのです。

今まで、主から直接言葉を頂いているのに、
小さな事にもチャレンジして勝利しているのに、
まだ自信が無いのです。

翌朝までに、この羊の毛だけに露を降らせ、
周囲は乾燥したままにして下さい、と主に願いました。
翌日に、その逆もお願いしているので、
あきれてしまいます。

神は、臆病で細かいギデオンに
寄り添ってくださいました。
その神の姿が私たちへの慰めになるのです。

2024/03/11

神は愛なり

私たちは自分たちに対する神の愛を知り、
また信じています。神は愛です。
愛のうちにとどまる人は神のうちにとどまり、
神もその人のうちにとどまっておられます。
(第一ヨハネ4:16)

神の愛に関する表現で、最も有名で、
一番ストレートな聖句が今日の箇所です。

神とはどんな方ですか。
神は愛です。

神がどんな方かを説明しようとすると、
創造主、正義の神、絶対者、きよいお方、
人格を持ち、永遠で、恵み豊か、などと
色々なことが頭に浮かびます。

ヨハネは、
神は愛だと言い切りました。

あなたは神に愛されています。
愛されていることをじわーと味わって下さい。
その愛の中にとどまって下さい。

神は、そのままのあなたを
まるごと愛しておられます。


ここを人生のスタートラインにしましょう。

2024/03/10

御顔を向けて下さい

主よ私に答えてください。
いつくしみ深いあなたの恵みのゆえに。
あなたのあわれみの豊かさにしたがって
私に御顔を向けてください。
あなたのしもべに御顔を隠さないでください。
私は苦しんでいます。
早く私に答えてください。
(詩編69:16~17)

あなたは今、弱さや不安を感じていますか。
体が不調の人、心が沈む人、
心配事や苦しみを抱えている方がいると思います。

今日の詩編では、
苦しむ者が神の助けを求めています。
神が御顔を向けて下さるだけで良いと考えています。

辛い時には、普通、否定的になるものですが、
この人は苦しみながらも前向きです。
神が持っておられる素晴らしい点に注目しています。

慈しみとあわれみをもって
今、私に目を向けて下さいと祈っています。

主よ、あなたとアイコンタクトできるだけで
心が落ち着きます。私を見て下さい。
御顔を向けてください。

2024/03/09

復活のからだ

死者の復活もこれと同じです。
朽ちるもので蒔かれ、朽ちないものによみがえらされ、
卑しいもので蒔かれ、栄光あるものによみがえらされ、
弱いもので蒔かれ、力あるものによみがえらされ、
血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらされるのです。
血肉のからだがあるのですから、御霊のからだもあるのです。
(第一コリント15:42~44)

春は種まきの季節です。
土を耕し、栄養を与え、種を蒔き、水を注ぐと、
やがて植物は芽を出します。

パウロは死について書いていますが、
私たちの復活は植物と同じだと説明しています。

私たちの体は、血や肉で造られた朽ちるものです。
その体が種のように蒔かれるのです。

死ぬ時は、種蒔く農夫のような
期待と希望をもっていましょう。

種が蒔かれると、種は姿を変えます。
朽ちないもの、栄光あるもの、
力あるもの、御霊に属するものとして
私たちには新しい命と体が与えられます。

私たちが生きて来た体が実在していたので、
復活後の体もパウロの言うとおりに実在するのです。

2024/03/08

キリストの真実

しかし、人は律法を行うことによってではなく、
ただイエス・キリストを信じることによって義と認められると知って、
私たちもキリスト・イエスを信じました。
律法を行うことによってではなく、
キリストを信じることによって義と認められるためです。
というのは、肉なる者はだれも、
律法を行うことによっては義と認められないからです。
(ガラテヤ2:16)

人は、神の前で義と認められたいと考えるものです。
そのために人が考える方法は努力であり、真面目さです。
律法をきちんと守り、我慢し、禁欲します。

その方向性は間違っていると
パウロは断言しました。

キリストを信じる信仰こそが
義と認められる道だと述べたのです。

「キリストを信じることによって」の新改訳の脚注を見ると、
別訳の可能性として「イエス・キリストの真実によって」とあります。
ギリシア語の自然な訳はこちらです。

私たちが信じる信仰によって、という部分に力点がかかりすぎると
信仰自体の「行い化」が起きてしまいます。
驚くべきキリストの真実があった。
私たちはそれを信頼しただけです。

ただ、キリストの真実によって、
私たちは義とされたのです。
あっけに取られるほどの一方的な恵みなのです。

2024/03/07

母性的な使徒

キリストの使徒として権威を主張することもできましたが、
あなたがたの間では幼子になりました。
私たちは、自分の子どもたちを養い育てる母親のように、
あなたがたをいとおしく思い、
神の福音だけではなく、自分自身のいのちまで、
喜んであなたがたに与えたいと思っています。
あなたがたが私たちの愛する者となったからです。
(第一テサロニケ2:7~8)

パウロには女性的な一面がありました。
今日の箇所を読んで下さい。
あたかも子育て中のママのような心でいたと
昔を思い出しています。

テサロニケで伝道した時のパウロは、
救われたばかりのクリスチャンに
愛の限りを注いでいました。

幼子を抱えたお母さんたちの献身は
本当に素晴らしいです。
子育て中のお母さん、頑張れ、
必ず報われる日が来ます。

パウロは、自分のいのちまでも与えるつもりの
お母さんたちと同じ気持ちだったと言うのです。

私たちも誰かを救いに導いたら、
キリストの弟子となれるように助けましょう。
そして、大きな愛で祈り支えてあげましょう。

母親のような愛で。

2024/03/06

蒔かれて、よみがえる

死者の復活もこれと同じです。
朽ちるもので蒔かれ、朽ちないものによみがえらされ、
卑しいもので蒔かれ、栄光あるものによみがえらされ、
弱いもので蒔かれ、力あるものによみがえらされ、
血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらされるのです。
血肉のからだがあるのですから、御霊のからだもあるのです。
(第一コリント15:42~44)

春は種まきの季節です。
土を耕し、栄養を与え、種を蒔き、水を注ぐと、
やがて植物は芽を出します。

パウロは死について書いていますが、
私たちの復活は植物と同じだと説明しています。

私たちの体は、血や肉で造られて朽ちるものです。
その体が種のように蒔かれるのです。

死ぬ時は、種蒔く農夫のような
期待と希望をもっていましょう。

種が蒔かれると、種は姿を変えます。
朽ちないもの、栄光あるもの、
力あるもの、御霊に属するものとして
私たちには新しい命と体が与えられます。

私たちが生きて来た体が実在していたように
復活後の体もパウロの言うとおりに実在するのです。
朽ちないからだによみがえらされるのです。

2024/03/05

御霊に頂いた賜物

同じ一つの御霊がこれらすべてのことをなさるのであり、
御霊は、みこころのままに、
一人ひとりそれぞれに賜物を分け与えてくださるのです。
(第一コリント12:11)

隣の芝生は青く見え、
隣の人の賜物は素晴らしく見えるものです。

目立つ賜物を持つ人を見ると
つい、うらやましいと思ってしまいます。

今日の聖句を読むと、
誰に、どんな賜物を与えるかは、
聖霊のお考えによるのだと分かります。

御霊の深いお考えに基いてすべての人に
何らかの賜物が与えられます。
これは大事なポイントなので忘れないように。

個性的な楽器が集まったオーケストラのように
異なった賜物を持つ人が集まる教会が
美しいメロディーを奏でることになるのです。

聖霊のご配慮で与えられた賜物を感謝し、
それを主と教会と人々のために用いましょう。

2024/03/04

主イエスを知る素晴らしさ

それどころか、
私の主であるキリスト・イエスを
知っていることのすばらしさのゆえに、
私はすべてを損と思っています。
私はキリストのゆえにすべてを失いましたが、
それらはちりあくただと考えています。
(ピリピ3:8)

パウロは律法学者として
エリートの階段を先頭切って上っていました。
学識、行動、勇気など申し分ありませんでした。

けれども、ダマスコ途上で復活の主イエスにお会いして変えられ、
積み上げたキャリアの無価値さに気づいたのです。
「キリストのゆえにすべてを失いました」とあるとおりです。

この日本においても時代をさかのぼると、
信仰を持つだけで多くを失った人達もいました。

パウロは失ったものに目を向けません。
主イエスを信じて良かったと心から思っているからです。

パウロが感激を込めて言っているのは、
主イエスを知っていることはの素晴らしさです。

イエスさまを知る事ができて本当に良かった。
あなたもそうでしょ。

2024/03/03

あの方の言われること

すると、イエスは母に言われた。
「女の方、あなたはわたしと何の関係がありますか。
わたしの時はまだ来ていません。」
母は給仕の者たちに言った。
「あの方が言われることは、何でもしてください。」
(ヨハネ2:4~5)

カナという町で結婚式が行われました。
主イエスのお母さんのマリアが
その式に深く関わっていたようで、
ぶどう酒の不足をいち早く察知しました。

母親の立場で息子に助けを求めましたが、
主イエスはご自分の立場を認識してもらうために
救い主は自分のタイミングで動くことを教えました。

マリアは一瞬でそれを理解したようです。
会場で働いていた者たちに
主イエスの指示に従うよう伝えました。
そのおかげで、彼らは大量の水を汲み、
「水」を宴会の世話役に味見させることができました。
その水はぶどう酒になっていました。

主イエスがきっと助けてくれる、
とマリアは信じていました。

あの方の言われることなら、何でもする。
その姿勢を私たちも大切にしたいですね。

2024/03/02

さばきにあわない

私の福音によれば、神のさばきは、
神がキリスト・イエスによって、
人々の隠された事柄をさばかれるその日に行われるのです。
(ローマ2:16)

さばきがあるとパウロは明確に語っています。

神の絶対的な正しさを基準にしてさばきが行われます。
神の前では何も隠せません。
すべてがあらわにされます。

そのさばきの中にあっても
私たちは神の愛と主イエスの十字架によって
救い出されるのです。

主イエスの救いは、罪からの救いであり、
罪の刑罰からの救いであり、さばきからの救いです。

ヨハネの福音書に次の言葉があります。

「さばきにあうことがなく、
死からいのちに移っています」(ヨハネ5:24)

2024/03/01

天と地

その後、私は、大群衆の大きな声のようなものが、
天でこう言うのを聞いた。
「ハレルヤ。救いと栄光と力は私たちの神のもの。
神のさばきは真実で正しいからである。
神は、淫行で地を腐敗させた大淫婦をさばき、
ご自分のしもべたちの血の報復を彼女にされた。」
(黙示録19:1~2)

黙示録を読むと、
二つの世界が交互に描かれていることに気づきます。

地上においては激しい戦いが繰り広げられます。
天上においては厳かな礼拝が行われます。
まるでパラレルワールドのようです。

19章になると、その二つがつながります。
世界を支配し人々を苦しめ、キリスト者を迫害していた張本人
「大淫婦」が滅ぼされます。

それを受けて、天上でハレルヤという声があがり、
神への賛美、礼拝が行われます。

天の軍勢によるクリスマスの夜の賛美を思い出して下さい。
いと高き所で栄光が、地の上で平和があるように。
天と地の両方について歌われていました。

主の祈りも思い出して下さい。
みこころが天で行われるように地でも行われますように。
私たちもそう祈っています。

天と地が別れたままでは終わりません。
黙示録が実現する時、その祈りは現実になります。