2022/02/28

罪ある者です

ダビデはナタンに言った。
「私は主の前に罪ある者です。」
ナタンはダビデに言った。
「主も、あなたの罪を取り去ってくださった。
あなたは死なない。」
(第二サムエル12:13)

ダビデが姦淫と殺人の罪を犯し、
それを隠していた時に、
預言者ナタンがやって来ました。

ナタンは一つの話をしました。
それを聞いたダビデは、
そんな男は死に値すると声を荒げました。
すると預言者は「あなたがその男だ」と
ダビデ王を糾弾しました。

ダビデは神のみこころを悟り、
すぐに罪を認めて悔い改めました。

瞬間的な全面的悔い改め。
それに続く罪の赦しの宣言。
「主も、あなたの罪を取り去ってくださった」

どんな罪も赦される。
ダビデはその模範です。

 


 

2022/02/27

立ち返れ

「背信の子らよ、立ち返れ。
わたしが
あなたがたの背信を癒そう。」
(エレミヤ3:22)

エレミヤ書の中心メッセージは
「立ち返れ」です。

神から離れ、神に背を向け、
他の神々に鞍替えした人々に
エレミヤは切々と語りました。
神の心を伝え続けました。
背信の子らよ、立ち返れと。

立ち返ったならば、
神ご自身が癒すと約束されました。

父の財産をすべて使い果たし、
みすぼらしい姿で帰ってきた
放蕩息子を抱きしめて
新しい洋服を着せた
父親の姿そのものです。

帰る場所は父の家です。


主よ、世界に平和をお与え下さい。




 



2022/02/26

互いに愛し合う

いまだかつて
神を見た者はいません。
私たちが互いに愛し合うなら
神は私たちのうちにとどまり
神の愛が私たちのうちに
全うされるのです。
(第一ヨハネ4:12)

仲よき事は美しきかなと
武者小路実篤は言いました。
どこかでその額を見たことがあるでしょう。

私たちが互いに愛し合うことは
美しいだけではなく
そこには神がいて下さるのです。

私たちは神を見たことがありませんが、
互いの愛の中に
見えない神が見えてくるのです。

神は愛です。
だから愛の中におられるのです。

今日も身近な人を大切にしましょう。
神はそこにおられます。

 



2022/02/25

栄光の主

これらのことを教えてから八日ほどして、
イエスはペテロとヨハネとヤコブを連れて
祈るために山に登られた。
祈っておられると、
その御顔の様子が変わり
その衣は白く輝いた。
(ルカ9:28~29)

三人の弟子たちは
山上で驚嘆しました。

今までは
主イエスの教えにはっとさせられ
奇跡を見て鳥肌が立ち
主イエスの優しい姿に接して
感激してきました。

今回は、
そこにおられるだけの
主イエスの姿を見ただけで
言葉を失ったのです。

主イエスが栄光に輝いておられます。
衣も白く輝いています。
この世のものとは思えません。

そうです。イエスさまは神なのです。

主の主、王の王、
まことの神。
主イエスに栄光を帰し
賛美をささげましょう。
ハレルヤ!



 



2022/02/24

走り終えた

私はすでに注ぎのささげ物となっています。
私が世を去る時が来ました。
私は勇敢に戦い抜き、
走るべき道のりを走り終え、
信仰を守り通しました。
(第二テモテ4:6~7)

パウロはローマの牢獄にいましたが、
自分の命があとわずかだと
はっきり悟ったようです。

ですから、愛弟子のテモテに
「さようなら」を伝えている手紙なのです。

カイザリアで幽閉されてからの日々は
自由な伝道旅行とは程遠い生活でしたが
パウロは主のみこころと受け止めていたようです。

今日の聖句には、自分の使命を全うし
走るべき道を走り終えたという
達成感がにじみ出ています。

人生の終わりに
パウロのような言葉を言えたら幸せです。

白いノートという人生に
聖書という定規を当て
主イエスに向かう直線を
命の限り引いて行きたいと思うのです。






2022/02/23

素晴らしい事

主をほめ歌え。
主はすばらしいことをされた。
これを全地に知らせよ。
シオンに住む者よ。
大声をあげて喜び歌え。
イスラエルの聖なる方は、
あなたの中におられる大いなる方。
(イザヤ12:5~6)

全国大会で優勝した。
難関校に合格した。
プロポーズが受け入れられた。
そんな時は「自分をほめてやりたい」と
いう気持ちになります。

今日の聖句はそれと違います。
主がして下さったと明白に分かったのです。
自分の努力の延長線にはない、
ダイナミックな主の力を見たのです。

神さまにしかできない方法、タイミングに
圧倒されて、賛美と感謝が生まれました。

主は素晴らしいことをされたのです。
もう黙っていられません。
みんなに主の素晴らしさを伝えたくなったのです。

その素晴らしい主が
今日も、あなたの中にいて下さいます。





2022/02/22

仮庵

あなたがたは七日間、
仮庵に住まなければならない。
イスラエルで生まれた者はみな
仮庵に住まなければならない。
これは、あなたがたの後の世代が、
わたしがエジプトの地から
イスラエルの子らを導き出したとき、
彼らを仮庵に住まわせたことを知るためである。
わたしはあなたがたの神、主である。
(レビ記23:42~43)

仮庵の祭りは、イスラエルの民が毎年祝う
三大祭りの一つです。

仮庵とは何でしょう。
一時的に雨露や暑さをしのげるレベルの
掘っ立て小屋です。

イスラエルの民がエジプトから救出され、
荒野を旅した日々を
追体験することに意味がありました。

子供たちが仮庵を体験すると
面白さと不自由さの両面が体験できるので
信仰の継承に役立ったことでしょう。

大人たちは遠い歴史に思いを馳せたり、
あるいは、自分の最悪の経験などと重ね合わせ、
主の守り、主の救い、主のご愛を覚えて賛美したことでしょう。

主は救い主。今も罪から救い、困難から助け出して下さいます。





2022/02/21

心を決めて

モーセは心を決めて
この人のところに住むことにした。
そこで、その人は娘のツィポラを
モーセに与えた。
(出エジプト記2:21)

若きモーセは訳あってエジプトから逃亡し
ミディアンの荒野のオアシスで休んでいました。

女性の羊飼い達が羊に水を飲ませていましたが、
後から来た乱暴な羊飼いらが彼女たちを追い出しました。
それを見たモーセは、悪い羊飼いたちを追い出し
彼女達を助けてあげました。

一人で複数の羊飼いを追い出す勇気や知恵や行動力。
ユダヤ人をエジプトから救い出す指導者の片鱗が
ここに表れています。

この話を聞いた女性たちの父親は
モーセを招いて礼を言い、
一緒に働かないかという話になりました。

モーセは心を決めてそこに住むことにしました。
たどり着いた見知らぬ場所で、
仕事と伴侶が与えられのです。

偶然のようで必然。
無目的に見えて、将来に繋がる道。
主は、今も、そのようにして
私たちを導いておられます。

心を決めると次の幕が開きます。



 





2022/02/20

あなたは枝

わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。
人がわたしにとどまり、
わたしもその人にとどまっているなら、
その人は多くの実を結びます。
わたしを離れては、
あなたがたは何もすることができないのです。
(ヨハネ15:5)

私たちは「枝」です。
そう主イエスが教えてくれました。

枝が幹から離れたら枯れます。
枝がしっかりつながっているなら
幹から養分がやって来て
花を咲かせ、葉を茂らせ、
実を結ぶことができます。

ある教会では、
ヨハネ15:1~12を礼拝の中で
交読文として毎週かかさずに読んでいました。
大切な事なので心に刻んでほしい。
伝道、仕事、交わり、奉仕、家庭、
あらゆる分野で主につながってほしい
という牧会者の祈りから出たものでしょう。

ずっと主イエスにとどまりたい。
どうしたら、とどまっていられるのでしょう。




2022/02/19

なんという幸せ

見よ。
なんという幸せ
なんという楽しさであろう。
兄弟たちが一つになって
ともに生きることは。
(詩篇133:1)

新会堂の完成奉献式のことを覚えていますか。
お互いに晴れがましい喜びであふれていたはずです。

兄弟たちが一つになって
喜び合えるのは本当に幸いな事です。

詩篇133篇には
祭司アロンの頭に注がれた油が
祭司服のすそまで流れる様子が書いてあります。
兄弟姉妹と共にいる喜びは
「上」から注がれた祝福によるのだと分かります。

兄弟姉妹を
ありのままに受け入れ、
共に喜べることは
天から注がれた大きな祝福なのです。

礼拝堂で兄弟姉妹に会う時、
思わずニコニコ顔になってしまいますね。





2022/02/18

かごの中で

ダマスコでアレタ王の代官が
私を捕らえようとして
ダマスコの人たちの町を見張りましたが、
私は窓からかごで城壁伝いにつり降ろされ
彼の手を逃れたのでした。
(第二コリント11:32~33)

パウロは何度も苛酷な苦しみを経験しました。
鞭で打たれたり、石打ちの刑も受けました。

パウロは数々の試練を振り返り
神の恵みで助けられたと謙虚に語りました。

特に、ダマスコで窮地に立たされた時は、
かごに入れられ城壁伝いに降ろしてもらい助かりました。
あの時の心細さは忘れられず、
誇れるものは自分の弱さしかないと述べました。

自分の弱さを痛感し、
狭いかごの中に入れられた時こそ、
主の恵みと愛を実感できるのです。

2022/02/17

主が共におられる

 彼の主人は、主が彼とともにおられ、

主が彼のすることすべてを彼に成功させてくださるのを見た。
(創世記39:2~3)

甘やかされて育ったヨセフは高慢で性格が悪く、
兄たちに嫌われて奴隷に売られてしまいました。
エジプトで苦労する中で彼は良い人に変えられ、
言葉も文化も積極的に吸収し、
抜群に仕事のできる賢い使用人になりました。

この後のヨセフの人生で際立つ事があります。
主がヨセフと共におられたという事です。

主と共にいることを心掛ける人は多いのですが、
ヨセフの場合は逆で、
主が率先してヨセフと共におられるように見えます。

苦難の中でヨセフは心がきよめられ、主を待ち望み、
主を信頼し、主を愛すことを学びました。

苦しんでいる人がいますか、
主はあなたと共にいて下さいます。


2022/02/16

力を落とすな

しかし、あなたがたは勇気を出しなさい。
力を落としてはなりません。
あなたがたの働きには報いがあるからです。
(第二歴代誌15:7)

神の霊が臨んだアザルヤは
アサ王と民に向かって語りました。

長年の間、イスラエルを導く者がいなかった。
主を求めるなら主は祝福してくださる。
アサ王よ、民よ、勇気を出せと。

それに応えてアサ王は
忌むべき物を除き、祭壇を新しくし、
王も民も主の前に出ました。

なかなか先が見えなくても、
すぐに結果が出なくても、
力を落とすことなく、
主に従い続けましょう。
必ず主の報いがあります。






2022/02/15

デザイナー

「見よ。わたしは、
ユダ部族に属する、
フルの子ウリの子ベツァルエルを名指して召し、
彼に知恵と英知と知識とあらゆる務めにおいて
神の霊を満たした。」
(出エジプト記31:2~3)

移動式の神殿を「幕屋」と呼びます。
その建設作業の時に神に召し出されたのが
ベツァルエルでした。

現代風にいうなら彼はデザイナーです。
幕屋で使う聖なる器具類を作り、
金、銀、青銅、宝石などに彫刻を施し
幕に使う織物の柄を決め、
祭司の装束デザインの細部を任されました。

デザインセンスは主から頂いた賜物です。
主の霊が注がれる事により
アーティスティックな要素がさらに輝きます。

主の栄光をあらわす
建築家、工業デザイナー、画家、映画監督、
ファッションデザイナー、彫刻家、書道家、
Webデザイナー、イラストレーター、編集者、
その他あらゆる分野でクリエイティブな人たちを
主は必要とされています。

主のためにあなたのセンスと技術と経験を用いましょう。



2022/02/14

朝、待ち望む

主よ、
朝明けに、私の声を聞いてください。
朝明けに、私はあなたの御前に備えをし
仰ぎ望みます。
(詩篇5:3)

朝、聖書を読んで祈る人、
デボーションをしている人は
幸いな日々を過ごせます。

大事な決断をする場面、
悩みや苦難に陥った時などに
朝の祈りが支えになります。

眠りから覚めた朝は
心身のリスタートができているので
聖書の言葉が心に染みてきます。

昨夜の否定的な気持ちは消え去り、
積極的な心で飛び立てます。

朝に私の声を聞いてください、と言いましょう。

雲霧が晴れ、道が見え、勇気が湧き上がり、
希望のラッパの響きが聞こえてきます。




2022/02/13

野菜を食べて

わずかな物を持って主を恐れることは
豊かな財宝を持って混乱するよりも良い。
野菜を食べて愛し合うのは
肥えた牛を食べて憎み合うのにまさる。
(箴言15:16~17)

物やお金をたくさん持っていて
贅沢なグルメ三昧の食事をしても
家族が争い、心が冷めていたら不幸です。

貧しくて、夕食に肉がなくても
心が通う平和な家庭のほうが何倍も良いです。
(でもちょっとは肉が食べたいかな)

「おいしいね」と家族が言い合って
たわいもない話でみんなが笑い、
食事が済んでも
食卓から離れたくない団らんになれたら
とっても幸せですね。

主を恐れる心が
普段の食卓ににじみ出てくるのです。


 


2022/02/12

わたしのもの

「彼らは、わたしのものとなる。
─ 万軍の主は言われる ─
わたしが事を行う日に、
わたしの宝となる。
人が自分に仕える子をあわれむように、
わたしは彼らをあわれむ。」
(マラキ3:17)

不信仰な人々が言いました。
神に仕えるのは無駄だ、
神の戒めを守っても役に立たない、
悪者が栄えている、と。

それを聞いた信仰者たちは
心を痛め、語り合いました。

主はそれを聞かれて
今日の言葉を言われました。

主に誠実な人の歩みを
主は見ていて下さいます。

主が事を行う日が来るのです。

そういう人々を、わたしのもの、また
「わたしの宝」と言って下さいます。

主は、我が子を愛すように、深いあわれみの心で
私たちをおおって下さいます。




 



 

2022/02/11

にわか

にわかに起こる恐怖に
悪しき者たちの来襲に、おびえるな。
主があなたの頼みであり、
足が罠にかからないように
守ってくださるから。
(箴言3:25~26)

「にわか」という言葉は
唐突に、出し抜けに、不意にという意味です。

準備のない時に
予想を超える大問題が発生したなら
私たちはパニックに陥ります。

そんな時は、おびえるなというのが
今日のすすめです。

主がおられるので頼りになる。
罠にかからないように主が守って下さる。
だから恐れる必要がないのです。

おびえたらだめですよ。
恐れをビシッと止めましょう。

突然で大きすぎる問題が襲って来た時は、
主の守りの盾はそれよりもっと大きくなっています。





2022/02/10

よく考えよ

「この宮が廃墟となっているのに、
あなただけが板張りの家に
住む時だろうか。」
今、万軍の主はこう言われる。
「あなたがたの歩みをよく考えよ。」
(ハガイ書1:4~5)

私たちは案外、
自分を客観視できません。

忙し過ぎると考える余裕が失われます。
自分の興味だけに引きこもる事があります。

自分を見つめ、
自分の周囲を見渡し、
主の目で見直すと
現状が分かってきます。

預言者ハガイは指摘しました。
礼拝場所が整えられていない今、
自分たちだけが良い生活を目指しても
それは本末転倒だと言うのです。

現状を考える。
座標軸の原点に主を置いて
自分の歩みを見直してみましょう。





2022/02/09

ベテル

彼は恐れて言った。
「この場所は、なんと恐れ多いところだろう。
ここは神の家にほかならない。
ここは天の門だ。」
(創世記28:17)

ヤコブは兄の復讐を恐れて実家を飛び出しました。
野宿した晩に夢を見ます。
神の使いが上り下りするはしごの夢でした。
そして、主が共にて下さる、
必ずこの地に連れ戻すという約束を頂きました。

朝、眠りから覚めて、
ヤコブが思わず言った言葉が
今日のみことばです。
その経験がとても嬉しかったのです。

ベートはヘブル語で「家」、
エルは「神」なので
ベテルは「神の家」という意味になります。

「その場所をベテルと呼んだ」(28:19)
ヤコブは自分の寝ていた場所をベテルと呼び、
枕にした石を立てて記念にしました。

聖書を読んでいる時に、
主から約束をもらったり、
大きな励ましをもらった箇所に
日付とメモを書く人がいますね。
それは自分なりの小さなベテルです。

信仰の記念日に特別な食事をしたり、
何か非日常的な事をするのも良いですね。

あなたのベテルは何ですか。


2022/02/08

能力によらず

彼は私にこう答えた。
「これは、ゼルバベルへの主のことばだ。
『権力によらず、能力によらず、
わたしの霊によって』
と万軍の主は言われる。」
(ゼカリヤ4:6)

捕囚から解放され、故郷に帰って来ても
神殿再建は軌道に乗りません。

民の指導者ゼルバベルや大祭司ヨシュアが
神殿建設を進めようとしましたが
たくさんの困難に阻まれました。

預言者ゼカリヤは、そんな時に幻を見たのです。
一本の燭台と二本のオリーブの木の幻です。
二本の木から管が出て燭台に油が供給されていました。
オリーブの木はゼルバベルとヨシュアを表していました。

神殿建設で大切なことは、
人間の力ではなく、
神の霊に導かれる事だと教えられました。

私たちの目の前にある予定も計画も
権力によらず、能力によらず
主の霊によって導かれますように。






2022/02/07

まさか、あの人が

ただ、人々は、
「以前私たちを迫害した者が、
そのとき滅ぼそうとした信仰を
今は宣べ伝えている」と聞いて、
私のことで神をあがめていました。
(ガラテヤ1:23~24)

キリスト者迫害の急先鋒パウロ。
その頃のパウロは険しい顔で
クリスチャンを見つけては
容赦なく迫害していました。

その彼が、復活の主イエスに出会い
福音の宣教者と変えられたのです。

そんな大きな変化があるのかと
当時の人も驚き、
キリスト者たちは神をあがめたのです。

今でも、
「まさかあの人が」
と思えるような人が
クリスチャンになることがあります。

実は、
あなた自身がそうではありませんか。
だとしたら、可能性が広がりますね。




2022/02/06

とりなし手に笑顔を

私は、あなたがたのことを思うたびに
私の神に感謝しています。
あなたがたすべてのために
祈るたびに、
いつも喜びをもって祈り、
(ピリピ1:3~4)

とりなしの祈りをするとき
思わず笑顔になる事があります。

今から祈ろうとする人が
楽しい人、お世話になった人、優しい人、
主を愛している人、福音を伝える人、
祈ってくれる人、誠実な人、
みことばを愛す人、などの場合
祈りながら自然に笑みがこぼれます。

パウロは牢獄にいたのですが
ピリピの人たちのために祈り始めると
感謝と喜びが湧き上がってきたのです。

ピリピの人々はとても良い人たちだったのです。

あなたがクリスチャンとして誠実に生きているだけで
遠く離れた誰かに喜びを届けられます。







2022/02/05

抱かれて

私は生まれたときから
あなたに抱かれています。
あなたは私を母の胎から取り上げた方。
私はいつもあなたを賛美しています。
(詩篇71:6)

最初の子どもが生まれた部屋で
私と妻は感謝の祈りをささげました。
昨日のことのようにはっきり思い出せます。

私たち夫婦は子供の誕生を喜び、
抱きしめて語りかけ愛情を注ぎました。

今日の詩篇を読むと、
主は、私やあなたの誕生の際
分娩室に共におられたのだと分かります。

私もあなたも、
主に抱かれて生まれたのです。
その主の愛は今も変わりません。

命をくださった主、
私を抱き、守り、愛情を注いで下さった主
今も共におられる主を賛美します。





2022/02/04

良い地

良い地に蒔かれたものとは、
みことばを聞いて悟る人のことです。
本当に実を結び、
あるものは百倍、あるものは六十倍、
あるものは三十倍の実を結びます。
(マタイ3:23)

主イエスは種まきのたとえを語られました。
豊かな実を結ぶのは四番目の土地でした。

何が他の土地と違うのでしょう。
神のことばが語られることは
4つの土地とも同じです、

みことばを聞いて、
理解し、実行する。
そこが大きな違いです。

主イエスを救い主として信じる決断をした人は
最初の実が結び始めた事になります。
みことばを聞いて実行する人は
実生活で実りを何度も体験できます。

聞いて実行する姿勢はとても大切ですね。
少しの勇気が大きな違いを生みます。
あなたは良い地です。






2022/02/03

捨てる

キリストは、神の御姿であられるのに、
神としてのあり方を捨てられないとは考えず、
(ピリピ2:6)

私たちは、ずいぶんたくさんの持ち物を持っています。
貯金や家や車を持っています。
今までの経歴、現在の立場、職業、名誉を持っています。
人間関係や家族や信用というものも持っています。
それらは簡単に捨てられません。

主イエスはもっと大きなものをお持ちでした。
神の御姿です。神としての立場、力、栄光です。
それを捨てました。

私たちを罪から救うという目的のため、
全部をお捨てになりました。

神の栄光をお捨てになったイエスさまを見ると、
何も捨てていない自分が恥ずかしくなります。

必要な場面で、
さらりと捨てられる人になりたいと思います。
私達が持っているものは全部主から頂いたものなのですから。



 

 

2022/02/02

愛していますか

イエスは再び彼に
「ヨハネの子シモン。
あなたはわたしを愛していますか。」
と言われた。
ペテロは答えた。
「はい、主よ。私があなたを愛していることは、
あなたがご存じです。」
イエスは彼に言われた。
「わたしの羊を牧しなさい。」
(ヨハネ21:16)

復活された主イエスがガリラヤ湖で
ペテロに質問しました。
「あなたはわたしを愛していますか」と。

主イエスを見捨てた過去があったので
ペテロの心中は複雑でした。
現在の自分にできる最大の愛で
あなたを愛していますと伝えたのでしょう。

この直後、三度目となる同じ質問をされました。
ペテロは、主イエスを三回否んだ過去の清算だと
気づいたはずです。

傷口に塗る薬がとても染みる場合があります。
痛くても薬なのです。いやすための薬です。

ところで、この質問の大前提を忘れないで下さい。
主イエスは、裏切ったペテロを愛しています。
変わらずに愛して下さっています。
その上で、質問しているのです。

あなたは今日、主イエスを愛していますか。

祈りの中で
あなたの愛を主イエスに伝えませんか。







2022/02/01

互いに赦し

互いに忍耐し合い、
だれかがほかの人に不満を抱いたとしても、
互いに赦し合いなさい。
主があなたがたを赦してくださったように、
あなたがたもそうしなさい。
(コロサイ3:13)

美しい言葉ですね。
赦し合える関係って
素晴らしいと思いませんか。

問題や過失が起きない方が良いのですが、
人間ですから過ちを犯します。

私が傷つける時もあり、
反対に、傷つけられる場合もあります。

そうしたマイナス要因を発端として
謝罪がなされ、赦しが生まれます。
そして一層深く心を通わせるようになるのが
キリストにある人間関係です。

私たちが
キリストの十字架を見上げると
「ごめんなさい」と
「赦します」が言えるのです。